運城/東方の芸術画廊!永楽宮に残る元朝時代の道教壁画 山西省の三大豪邸と平遥古城
運城
君和泰酒店

ホテルの部屋から眺めた運城市内の景色。十字路にある建物がバス停の名前になっていた黄河大厦。




運城駅前

駅前に来ればタクシーがいると思い、運城駅前に来た。1台のタクシーと交渉し、400元で1日チャーターすることにした。少し高いかな?とも思ったが、走行距離約200㎞や拘束時間を考えるとこのくらいが妥当かもしれない。

これから行く永楽宮と李家大院は市中心部からみると真逆の方向にあり、同日訪問するのは非常に効率が悪い。どちらか一方であれば公共バスで行けなくもないが、かなり時間がかかる。昨晩から少し迷っていたが、タクシーチャーターで行くことにした。運城市が運営する3元の「運城城景通」も、この2か所を同日行くツアーは無い。

運城駅から運城塩湖へ向かって一直線に進む。

運城塩湖が見えて来た!
運城塩湖

運城市の見どころの一つとして、大きな塩湖がある。

この塩湖のおかげで「河東」と呼ばれていたこの辺一帯は財政的にも豊かで、多くの文化人も輩出された。また唐の時代、ここで採出された塩が長安の宮廷へ献上されていた。

現在は汚染が進み、食用としての塩は生産されず、工業用の塩が生産されている。

運城市内の塩湖の地図。

運城塩湖を縦断し、高速へ入る。

関帝廟のパーキングエリアがある。この辺が関羽の出身地である解州である。

暫くの間、ほぼ車が通っていない高速をひた走る。
運城市芮城県

10:00過ぎに永楽宮がある運城市芮城県に到着した。バスだと市内から1時間半ほど掛かるらしいが、運城駅から、高速も使って45分くらいで来れた。

タクシー運転手の冷锋さん。別に名前を聞いたわけではないが、時間のやり取りなどで微信を交換したので、名前を知った。

ここ永楽宮と、次に李家大院もこんな感じで待ち合わせのやり取りをしていた。

永楽宮

永楽宮の入口。この門は「山門」という。微信でも入場券を購入できるが、右側の窓口で現金購入した。


永楽宮の地図。


地図にあるように、入口の山門から少し歩くと池がある。

古魏城遺跡

池を渡ると「古魏城遺跡」がある。ここの「魏」とは、三国時代の「魏」ではなく、西周初期に存在していた姫氏の魏国である。姫氏魏国は春秋時代に晋に併合された。

古魏城遺跡といっても、このような土塁が残っているだけである。


姫氏魏国は西周時代の一諸侯であったが、この古城は東西1.5㎞、南北1.3㎞あり、当時としてはかなりの規模の軍事的要塞でもあった。

古魏城遺跡の全体図。

更に奥へと進む。
龍虎殿(無極門)

龍虎殿。「殿」という名前が付くが殿堂ではなく門である。

別名「無極門」とも呼ばれている。元の時代にできた宮門である。



三清殿(無極之殿)

三清殿。ここに現代に描かれた「朝元図」の壁画がある。

三清殿は「無極之殿」という別称がある。



三清殿内部構造の解説図。QRをスキャンすれば詳細が確認できる。

図でまとめてみると、この殿堂の壁には、道教の八大主仙が上図の通りに描かれている。
朝元図
①白玉亀台九霊太真金母元君

西壁側から順に、先ずは「白玉亀台九霊太真金母元君」。入って左手側の「殿壁西壁」南に位置している。

「白玉亀台九霊太真金母元君」。鳳冠をかぶって正装し、椅子に座っている。非常に威厳のある女性神として描かれている。

②東華上相木公青童道君

「東華上相木公青童道君」。白玉亀台九霊太真金母元君の隣に描かれている男性主仙で、金母元君が「西方」「陰」「女神」で、「東方」「陽」「王公」と対に描かれている。
③勾陳星宮天皇大帝

「勾陳星宮天皇大帝」。北壁西段に描かれている。

天界の軍事、護衛、天宮を統括する、非常に位の高い神で、四御の一柱として扱われている。
④東極青華太乙救苦天尊

「東極青華太乙救苦天尊」。殿堂内内側の扇面壁西外壁に描かれている。あらゆる苦しみを救い、迷える魂を導く慈悲の最高神である。

続いて東側の壁画へ行く。
⑤后土皇地祗

后土皇地祗。

こちらは大地を統括する女神である。「后」という漢字は、現在も「皇后」に使われているが、古代中国では女性君主、女王を意味していた。

后土皇地祗が北側を向く前方側には「五岳」「四濱」という山川土地神の護衛が従えている。「五岳」とは東岳泰山・西岳華山・南岳衡山・北岳恒山・中岳嵩山、「四濱」とは長江・黄河・淮河・済水で、いずれも中国を代表する山と大河で、それらの神が描かれている。

そして「五岳」「四濱」の前方には、「福」「禄」「寿」の三星が描かれている。福=幸せ、禄=社会的成功・財、寿=長寿で、人間界の幸福を示している。つまりここには自然界の神と人間界の神が一体となって描かれている。

后土皇地祇の後方に描かれている「酆都(ほうと)諸神」。

「酆都(ほうと)諸神」とは、道教における死者・鬼魂の世界、すなわち冥界を統括する場所・神界である。酆都(ほうと)とは死者の魂が行く冥界のこと。

后土皇地祇は大地を統括する女神である。女神は北ヲ向いている。そしてその前後、東方には生命の世界観が描かれ、西方には瞑界の宇宙観が対を成して描かれていた。
⑥太上昊天玉皇上帝

「太上昊天玉皇上帝」。

道教の概念での天界には「星君」「雷部」「風雨の神」「山川の神」「地府の神」「人間界」など様々な世界と神がいる。

それら道教での神々の世界を統括する神である。
⑦中宮紫微北極大帝

「中宮紫微北極大帝」。北壁東段に描かれており、「勾陳天皇大帝」と対をなしている。勾陳天皇大帝は軍事、護衛、天宮を統括する武力の象徴的な神であるが、中宮紫微北極大帝は北極星を中心とした展開の最高級の行政、宇宙秩序を統括する神である。
⑧南極長生大帝

「南極長生大帝」。この神は万物の生命、長寿、寿命を司る最高位の神である。
純陽殿

三清堂の後方にある「純陽殿」。

純陽殿は1358年に完成した。

呂洞賓像

入口から覗いた様子。中央にある像は道教の神である呂洞賓である。この殿堂は呂洞賓を祀る殿堂で、メインの壁画はこれだけである。
重陽殿


重陽殿は1252年に完成。中の壁画が描かれたのは1358年頃である。

この殿堂は道教の一派である全真教の開祖・王重陽を祀る建物。

中へと入ってみる。

写真右側の掛け軸に描かれているのは、王重陽の7人の高弟子の全真七子の一部である。
王重陽神化顕霊図

ここの壁画の特徴は、コマ割りのような絵巻物の区画が並んでいて、「物語の連続絵巻」のような構成となっていることである。

物語の内容は、王重陽がいかにして仙人となったかを表している。

つまりは王重陽の伝記図壁画ともいえる。絵画に描かれている内容は、王重陽の誕生や若い頃の武芸の修行、神と出会い、仙人になるための教えを受ける場面、各地を回って民衆を救う場面、弟子たちとの出会いの場面などがある。

そして重陽殿のこの壁画は「王重陽神化顕霊図」という題名が付けられている。


壁画の一部は浸水などにより剥離、劣化している。

呂祖墓

重陽殿の後は永楽宮を取り囲む壁の最後方である。ここに純陽殿で祀られている呂洞賓の墓がある。

呂祖墓の解説。中国語、英語の解説の下に日本語解説もある。

呂洞賓は道教の中から生まれた主要な一派の「全真教」の開祖である。出身はここ山西省芮城県永楽鎮周辺と言われている。

呂洞賓は仙人となって伝説化もされ、記録に残る活動年代も唐末~宋初期と150年以上ある。実在した人物かは不明。

ねえねえ、呂洞賓について簡単に教えてよ!

呂洞賓の逸話について紹介しよう。呂洞賓がまだ俗人だった頃、旅先で師匠となる鐘離権と出会い、鐘離権が粟ご飯を炊いている間に、呂洞賓は眠り込んでしまう。その時、夢の中で科挙に合格する→出世する→高官になる→ 結婚する→子供を持つ→栄華を極める、という人生を何十年も繰り返した。

それでそれで?

しかし目を覚ますと、栗ご飯はまだ炊きあがっていなかった。そこで呂洞賓は「人間が一生かけて追い求める富・名誉・地位などは、実は一瞬の夢に過ぎない」ということを悟り、では「人間が本当に求めるべきものは何なのか?」を追求し、その答えが「道」を求めること!に辿り着いたんだ。

ほう、ほう!

「黄粱一夢(こうりょういちむ)」という逸話だよ!

「道」とはなにか?超平たく言えば「人間の通常の欲望や執着を超越し、自己の本性を完成させる」こと。そして、世俗的な人生→道を求める人生→修行→仙人となっていったんだ。呂洞賓の物語は「外面的な成功を求める人生」から「自己と宇宙の真理を探究する人生」への転換と見ることができるんだ。

へぇー、そうなんだ!ちょっと難しいなぁ・・

呂洞賓は中国民間信仰で有名な八仙の一人に数えられている。

中国八大仙人とは鐘離権、呂洞賓、張果老、李鉄拐、韓湘子、何仙姑、藍采和、曹国舅の8人のことだよ。

ほう、ほう!
宋墓

呂祖墓の隣にある宋墓。

こちらは地元の人が畑を整備している時に発見された。永楽宮の創建に貢献した全真教の高僧・宋徳方という人のお墓である。地下墓室には見事な彩色画が描かれていて、宋代のものであるとこが分かっている。

宋徳方は1183年から1247年まで実在が確認されている人物である。西安で亡くなり、その後計5回ほど諸事情で墓が移転された。これで永楽宮の一番奥まで回ったので、戻ることにする。
石牌坊

入場口である山門へ戻る途中、東側に石牌坊があったので、ちょっと立ち寄ってみた。


この石牌坊は清の乾隆42年(1777年)、李天仁という人物の「孝行」を顕彰するために建てられたもの。もともとは永楽鎮南礼教村にあったが、三門峡ダムによる水没を避けるため、現在地へ移転された。
