嘉峪関 → 敦煌

8:00前に車掌が換票に来て起される。車窓の景色はこんな感じ。

朝4:00前に嘉峪関から乗車し、即効で熟睡できた。
嘉峪関の闇宿で3時間半、車中で4時間、十分睡眠が取れている。

砂漠に網掛している光景は2015年の南橋鉄道の旅でもよく見かけた光景だ。

植林保護のためと思われる。




この辺、西域と呼ばれる地域に入り、北京時間からみると日没も遅いが、日の出も遅い。
日の出時間は朝8:00くらいと思う。






敦煌

もうすぐ敦煌駅に到着。

8:34、定刻より若干早めに到着した。
ここ数年、中国の寝台列車に乗り、定刻より早く到着することがあるが、2010年以前では、決してあり得ないことだ。

ホームの様子。
ここの敦煌駅にははじめてきた。
「ここの」と言うのは、2回目に着た2005年当時、一時的に「柳園」駅が「敦煌」駅に改名していた時期が有り、その時、柳園の「敦煌駅」に着いた経緯があるため。

こちらはK367、蘭州発の敦煌号。



お!

なんという黄金の組み合わせ!

ようこそ敦煌駅へ!

路面からも飛天がお出迎え!



こちらは莫高窟の壁画にある「九色鹿」をモチーフにしたもの。

ちんたら歩いて改札を出る。

駅前広場の様子。
敦煌駅(駅舎)

敦煌駅!


タクシー乗り場。
タクシーを使う人は多くない。

駅前広場を少し彷徨い、バス乗り場を探す。

あった!
一律市内まで3元のバスで市内に向かう。このバス、市内→莫高窟センター敦煌駅→市内と巡回している。
満員にならなくても、適度な時間、人数により出発する。

バスの中の様子。

大きい荷物は前方に積み込まれる。

市内へ向かう。

市内へ入る門。








久々に敦煌の街へやって来た。

絲路怡苑大酒店の前がバス終点で下車する。

敦煌賓館

歩いてすぐの敦煌賓館へ。
今回の旅、敦煌の宿はちょっと奮発した。
鳴沙山近くの「敦煌山荘」とかなり迷ったが、敦煌夜市に行きたかったので、こっちにした。

ロビーの様子。

敦煌賓館ロビーにある飾り物。
いかにも敦煌らしい、反弾琵琶の像。





中庭の様子。

建物の壁に描かれた画。

自分はちょっとランクを上げた部屋を取っていたので、主楼のフロントでのチェックインはパス、ベルボーイに荷物を持たれ、道路を隔てた貴賓楼に通された。

貴賓楼の入口にあった絵画。


今回宿泊したお部屋。

ウェルカムドリンクとかフルーツとかあったけど、なんかちょっと物足りない。
部屋はキレイで申し分ないけど、ごく普通の部屋といった感じ。
欲言えばもうちょっと広さ(開放感)が欲しかった。

洗面室。

少し休んで、外へ出た。
敦煌賓館入口の隣には列車の切符売り場がある。
新彊内鉄路移動の切符を買っていなかったので、ちょうどよかった。
だけど今日の午前中、先にやるべきことが2つある。
陽光中路

陽光中路。
敦煌賓館からすぐ近くのこの場所に漢唐大酒店がある。
2016年度版の歩き方によると、漢唐大酒店のそばに莫高窟参観予約センターがある。
だけど見つからず、道行く人に聞いたら、陽光中路を駅の方向へ2kmほど行った場所へ昨年移転されたという。
莫高窟参観予約センター

教えられた通り、2路のバスで市民病院前で下車し、着いた。
終点まで行って、1駅バックする。

一日6,000人の入場制限の情報があったが、外国語ガイド枠は別であろうと思っていたので、全く心配していなかった。
案の定、明日11:30の日本語ガイド付のチケットを無事に買えた(238元+外国語20元)。
中国語ガイド付もまだ余裕があるようだった。
中国で最も混み合う時期の一つ、5月小暇期の真ん中の日でも余裕で買えた。
一日6,000人枠があっても、外国語枠は心配無用と思われる(保証はしませんが)。
また外国語枠のチケットはネットで予約出来ない(当時)が、システムを改修中で、そのうち予約できるようになるとのこと。

予約センター中の壁に描かれていた絵画。
敦煌長距離バスセンター

そして再びバスで戻り、今度は敦煌長距離バスセンターへ。
ここで明後日のバスのチケットを購入した。
2番だったので、最前列だ。
1番で無かった理由はのちほど。
陽光中路

再び陽光中路へ。
なんかお洒落な広告、店が溢れている。
以前来た時には想像がつかない有り様だ。

お洒落なパン屋さん。

ハイグレードな商品が並んでいる。

エッグタルトも売られている。
敦煌でエッグタルトとは。。。

少し歩くと・・、なんと、あった!

小肥羊「敦煌店」!
ここにも小肥羊が進出していた!!だけど今回の夜ご飯は敦煌夜市で食べるので、ここで食べる機会は無さそう。一応、銀川で火鍋を食べたし。

そしてKFCまであった。
初めて敦煌に来た1996年当時では、全く考えられなかったことだ。
この時、11時過ぎで朝も食べていなかったので、ここでお昼を食べることにした。

レジ・・・だけど人がいない。
スマホ決済で、注文もスマホで行うシステムになっていた。
敦煌にKFCなんで想像すらしていなかったけど、すでに抜かれてしまった感がある。
スマホ決済が出来ない人(自分を含めて)は、わざわざ店員を呼んで注文することになる。

店内にあった写真。

こちらも店内にあった写真。

敦煌のKFCは他とはちょっと雰囲気が違う。

久々に中国で食べるKFC。
店員を呼んで注文していたのは自分だけで、ちっと恥ずかしかった。写真右下のものは日本のメニューにはなく、中国でしか見かけない「土豆泥」。

敦煌市街地。
敦煌市政府前の通りが陽光中路。
中央が鳴山路。
この2つが主な通り。

食後、陽光中路を散歩する。
新華書店。
中国の田舎に行くと、こうしてテーブルに平積みして本が売られているのをよく見る。
無駄にスペースを取っているだけの気がするが、国が広いのでどうって事無いのか?!
「敦煌老麺荘」

「敦煌老麺荘」の看板がある。
前回来た時はもちろん無かったが、そもそも敦煌で麺料理なんて発展していなかったはず。

店内の様子。
要はロバ肉の麺の店だった。
最近歩き方でよく目にするが、この麺は最近名物化されたものだと思う。
さっきKFCでお昼を食べてしまった。
この後、タイミングが合えば、こで食事をしてみよう。

店内の壁に描かれた絵画。

ここに敦煌のシンボルである反弾琵琶の像がある。
この像は初めて敦煌に来た時からずっとある。

陽関中路と沙州北(南)路が交差する場所。
今も昔も、一応この近辺は敦煌の繁華街といえる場所と思う。

地元デパートの中にメイソウがあった。

鳴山路に向け、陽光中路を更に進む。

さっきから少し気になっていたのだが、道を歩いていると、このように飛天ファッションの服装の女性をちょくちょく見かける。

また蘭州でも見かけたが、日本の小学生が被る帽子もいた。
鳴山路

鳴山路に着いた!非常に懐かしい!!
以前、この通りにはお手頃な安宿や飲食店が終結していて、1回目、2回目共にここに宿泊していた。
またこの路をひたすらまっすぐ5km程行くと、鳴沙山に辿り着く。

しかし、、、なんか以前と様子が違う。

「巴黎春天」ってプランタンのこと?

若者向けの「海瀾之家」がある。隣には雲店国際酒店。

「天潤国際大酒店。」
依然として鳴山路はホテルが多い。
陽関中路沿いのホテルよりグレードが落ちるものの、昔のような安宿街という感じでは無くなくなっている。。

「莫高賓館」
こちらは1996年にもあった。もっとボロかったが。

「敦煌飯店」
敦煌賓館と名前が似ているが、こちらはドミがあったりして、以前はバックパッカー御用達の定番宿であった。
ちなみに2回目は、ドミではないがここに3泊宿泊していた。

フロントの様子。
改装され、かなりキレイになり、以前とかなり雰囲気が違う。
誰でも気軽に入れる休憩所、情報交換の場所的な雰囲気では無くなってしまった。

高級ブティック店が並んでいる。
中国は変化が激しいのは分かっているけど、ここ西域の敦煌も例外ではなかった!
もはや昔の、青春の鳴山路の面影はない。
敦煌も時代の波に晒され、すっかり変わってしまった(涙!)

暫く周辺をぶらついてみた。


敦煌市街地内、ところどころ牛肉面店があった。


公共マナーを説明する看板。中国の地方都市ではしばしば見かける。

































一旦ホテルに戻り、「敦煌夜市」のバス停へ。

3路のバスで「博物館」へ向かう。
敦煌博物館

「敦煌夜市」3路のバスに乗り15分くらいで到着。
敦煌賓館からでも歩いていける距離にある。

開館時間。


左の入口から入り、最後は右の出口から出てくる。

青い部分は通路、駱駝のが描かれているのは曲線状の壁。






敦煌郡の設置について。
設置したのは前漢8代皇帝の武帝(劉徹)。
理由は東西交易路の確保であるが、最大の目的はフェルガナの汗血馬を獲得し、宿敵匈奴を打倒するため。


中西交通の興隆について。


「莫高窟」の造営について。

366年、五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配化にあった時、楽樽※という僧侶が洞窟を掘り始めたのが起源。
以後、1000年以上に渡り、彫り続けられた。簡潔に理由をいうと「旅の安全祈願」である。※樽は人偏
そしてここ敦煌博物館の目玉といっていい展示、莫高窟第45窟「観世音菩薩」(盛唐)のレプリカがある。
莫高窟第45窟レプリカ

あった!



天井の様子。

細かく無数の御仏が描かれている。まさに圧巻である。

もの凄いド迫力!

ただ、ただ、なんかスゲェ!

彫像達の上に描かれている天井画。

壁面画。

壁面画。


一番手前のお二人は天王。


天王(写真中央)。

天王(写真左)。

そして白い肌のお二人は菩薩。

菩薩の奥隣のお二人は阿難(左)と迦葉(右)。

そして中央上座は釈迦如来。

配列はこうである。
釈迦如来
阿難 迦葉
菩薩 菩薩
天王 天王

レプリカだけど十分見ごたえあり。
敦煌博物館は来る価値絶大!

他の壁画。

敦煌文献を外国に売り渡した王道士。
1900年に第16窟から敦煌文献を発見し、国外へ売り渡した張本人。

清代の敦煌城の模型。このころには海路が発展し、東西交易路における敦煌の価値は無くなっていた。



清代の敦煌県令一家の写真。


1908年、スタインに続きやって来たフランス人ペリオ。
敦煌文書検品中の様子。
見方を変えれば、盗掘真っ最中の様子。
しかし、これらの行為により敦煌が世界に知れ渡り、敦煌学が発展したのも事実。

現在の敦煌市街地と空港、鉄道駅(右上)の位置関連図。


市街地は2箇所に別れている。
右側が市政府、ホテルのある市街地で、左下の三角地帯は新興工業区。

鳴沙山

1時間半ほど敦煌博物館を見学し、再度3路のバスに乗って鳴沙山へ向かう。


博物館からバス乗車10分程度で到着。

入場料110元で2日間有効。

ここにも漢服女子がいた。しかも連れはジョイマンの高木似。

鳴沙山に来たからには、もちろん駱駝に乗る。


一人80元、乗駱券を買うと番号が与えられる。
自分で好きなラクダは選べない。
(白の駱駝に乗りたかった・・)



このように駱駝を至近距離で見ることはめったに出来ないので、じっくり観察する。




駱駝は人に対し警戒心もなく、関心無さそう。

こちらが熱い眼差しを向けても、駱駝はなかなか目線を合わせてくれない。





早速出発!!5~6頭で隊列を組まれる。



どこへ行くのかよく分からなかったが、あの砂丘のほうへは行くらしい。

ラクダに乗りながら撮影。






ラクダに乗りながら撮影。


あちらは砂丘から戻ってくる隊列。



後ろを振り返る。




4kmほど、1時間以上かけて乗駱する。








この人はコスプレした職員ガイドである。



約1時間後、元の場所へ戻ってきた。

こちらは自分が乗ったラクダ。名前は知らない。

お疲れ様!

今度はこちらの砂丘へ登る。


以前は無かったが、入ってはいけない場所が仕切られていた。


ゆっくりと登っていく。



後ろを振り返る。












砂を触ってみた。
海辺の砂浜の砂みたいに、柔らかくて、優しい感じがする。






ある高さの場所まで登り切った。


砂を触ってみた。
海辺の砂浜の砂みたいに、柔らかくて、優しい感じがする。

人目につかない方向へ、更に奥へ突き進んで行く人がいた。
もうすぐ日が沈むのに戻ってこられるって来られるのだろうか?

砂丘線をよーく見ると、人が登っている。

肌の上に止まっている何かの微生物のよう。




そろそろ日没の時間だ。

2019年5月1日20時頃、鳴沙山。













日没を眺めるため、多くの人がまだ滞在している。

日没の風景を眺める人々。

ご機嫌よく、はしゃいでいた。

日没前後の月牙泉。こちらは角度的にまだ陽が差している。

日没の風景を眺める人々。

この時、20:30くらい。
最終バス(21:30)が心配なので、そろそろ下山することにした。


砂丘を滑り下るようにして下山していると、男女6人組みに一斉に「師哥!」と声を掛けられた。
無視して行くと、「別走了!」と言う。
なんだと思ったら、つまり写真を撮って欲しい、と言うことだった。
リクエストにより、6人全員後向きで、月牙泉を背景にした写真を撮ってあげた。
この写真は、下からこっちが撮ったもの。

完全に日が沈んだので、辺りもだんだん暗くなっていく。




帰り始める人も多くなった。
砂丘の上からバス停まで、近そうに見えても30、40分は掛かる。


21:20頃、バスに乗車。
最終バスは21:30であるが、終バス間際は何台か立て続けにバスが出ているようだった。
敦煌夜市

「敦煌夜市」のバス停で下車。

反弾琵琶像がライトアップされている!

近寄ってみた。

遅い時間帯でもほとんどの店は開いている。

敦煌夜市へ入ってみる。


いろいろ見たかったが、既に22時を過ぎている。

明日も来るのでお買い物はあと。

先にお食事。
こちらは飲食店が集る広場。
外のテーブルで食事しようとしたら、お一人様は断られた。
外の席は四名以上からとのこと。

飲食店はたくさんあり、めげずに適当な店に入る。
だけど既に夜22時半を過ぎており、控えめに羊肉串(小)10本だけ注文した。
写真飲み物はビールではなく、お店自家製の杏皮水。
売れ残り品か、サービスでくれた。