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北京/宛平城と中国人民抗日戦争記念館 2023年夏の北京旅行⑬

北京

盧溝橋東門から眺める宛平城

盧溝橋の対面にある宛平城。1937年7月7日に発生した盧溝橋事件の際、この城も戦場となり戦禍に晒された。

後ろを振り返れば盧溝橋。

宛平城「威厳門」

道路を渡り、宛平城の中へ入ってみる。盧溝橋正面にあるこの門は、宛平城の西側に位置し「威厳門」という。

道路を渡って盧溝橋東門入場口を振り返る。

宛平城

威厳門を潜り抜け、宛平城内へ向かう。

尚、宛平城への出入りは自由で、入場料を徴収されることはない。

宛平城と周辺の位置図。

再度、盧溝橋方向を振り返る。

宛先城内方面の様子。

場内側から見た「威厳門」。

城内へ入るとすぐ「何平安胡同」と小胡同があった。

「胡同」とは老北京特有の小通りのことである。

近くに売店があったのでミリンダを買い、木陰で少し休憩した。ミリンダ懐かしい(5元)。

売店で売られていた雑貨商品。

毛沢東バッチ

毛沢東バッチも売られていた。久々に発見!

いろんな種類がある。

毛沢東バッチはこういう道端の露店か、天安門広場内にある毛主席記念堂で売られているが、中国国内でいざ探そうとすると、なかなか見つからない。

大学生の頃はギャグか悪趣味か、自分でもよく分からず結構買い集めていて、今でも家のどこかにある。今回も買うか否か少し迷ったが、買わなかった。

城内街

この通りは宛平城の中央通りで「城内街」という。

城内街。

城内街。

少し歩くと、立派な門があった。

「盧溝橋第一小学」との看板がある。小学校だった。

中国人民抗日戦争記念館

盧溝橋対面の宛平城入口から約200m程「城内街」を歩き、「中国人民抗日戦争記念館」へ到着!盧溝橋は日中戦争勃発の地であることから、このような記念館が近くにあるのだ。

入場無料であるが、WeChatで事前予約が必要である。しかしこの旅行時はWeChat予約の設定ができておらず、入口係員に「自分は外国人でWeChatが使えない」とパスポート提示すると、親切且つとても丁寧な対応で無料入場券を発見してくれた。

この日は8月15日で、日本のパスポートを提示し、このような記念館に入るのは少し気まずく感じたが、若い係員にとってはそんなの知ってか知らないか、どうでもよい様子で、余計な気苦労であった。

早速入場する。

「中国人民抗日戦争記念館」

記念館の中の様子。

ここへ来たのは2回目。前回訪問から25年以上経っており、館内施設の様子もだいぶ変わっている。

無料のパンフ。日本語含む数か国の言語版があった。

日中戦争の履歴。「1937年日本が北平西南の盧溝橋で七七事変を起こし、中国守軍は抵抗に奮起し、全土で抗戦が始まった」との記載がある。中華民国時代、北京は首都ではなく「北平」と呼ばれ、この時日本が交戦した相手は中国共産党ではなく、中国国民党軍であった。

日中戦争の前年の1936年12月12日、西安で蒋介石が、内戦停止を訴える張学良に監禁される「西安事変」が発生、1937年の盧溝橋事件を契機に第2次国共合作、抗日民族統一戦線が具体化形成された。

1937年7月7日「盧溝橋事件」前の1932年9月18日に発生した「満州事変」関連の展示。

リットン調査団の写真。

以前のこの種の記念館は、反日感情をむき出しにした過激な展示内容が多かったが、今はそんなことはなく、ただ事実を淡々と、客観的に展示しているだけ、に感じた。

だけど当時の中国国民党、蒋介石の業績を称えるような展示は皆無で、中国共産党の活躍ぶりが大々的に展示紹介されている。写真は毛沢東42歳。

展示の新聞は1936年12月12日に張学良が、西安市郊外にある華清池で蒋介石を監禁した「西安事変」に関する記事。この時、張学良は延安から中国共産党No.2の周恩来を呼び寄せ会談、蒋介石に内戦停止と抗日を約束させる。

長征を終え、陝西省延安で指揮を執る毛沢東。

延安時代の中国共産党幹部達。

彭徳懐。紅軍を指揮し、中華人民共和国建国後、国防部長、党中央軍事委員会副主席など共産党内の中枢的な幹部であったが、1959年7月から始まった廬山会議において、毛沢東が指導した「大躍進」の失敗を暗に批判して失脚し、文化大革命の最中、紅衛兵の吊し上げに遭い死去した。文革後の1978年、鄧小平により名誉回復された。

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林彪。彭徳懐の失脚後に台頭。文化大革命中、毛沢東の後継者まで上り詰めたが、1972年のニクソン大統領訪中にみられる毛沢東のアメリカ寄りの譲歩に反発し、暗殺を謀ってロシアへ亡命途中、モンゴル上空で撃ち落とされ死亡した。以降、中国では「裏切り者林彪」と呼ばれている。

毛沢東。共産党内で当初、周恩来よりも地位が低かったが、長征途上の1935年1月15日に貴州省で開催された中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で指導権を確立し、中国共産党の最高指導者となる。1949年10月1日中華人民共和国を建国し、晩年1966年には文化大革命を引き起こした。

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朱徳。国共内戦時の八路軍の総司令官で、人民解放軍の父とされる。新中国建国後、党中央委員会副主席など要職を務めた。

周恩来。中華人民共和国建国時に首相となり、終身その地位を維持した。日本に留学経験もある。文化大革命中、朱徳と共に失脚しなかった。

共産党の延安時代の写真展示が多くあり、盧溝橋事件とは直接関係ないじゃん!と内心思いつつ、興味はあるのでじっくり見学する。

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毛沢東の著書「持久戦論」執筆の様子。

1938年頃の陝西省延安の様子。写真中央は延安のシンボルである宝塔。

再び盧溝橋事件に関する展示。事件後に発刊されたと思われる、当時の中国側の新聞。

日本語の新聞もあった。

盧溝橋事件当時の写真展示。

現地に置き去られた我が国の国旗があった。

当時の日本軍の武器類。

日本刀もある。

これらを見ていると、何とも言えない複雑な心境になる。

出口近くの展示。最後は平和をアピールしている。

歴代の最高指導者のパネル。習近平は新中国建国後、第5指導体制世代に分類される。

40分ほど館内見学をした。

「中国人民抗日戦争記念館」

記念会の前に大きな記念盾が置かれていた。

最後、もう一度振り返り、記念館を後にした。

宛平城内

記念館を出て、再び宛平城内を歩く。「城内街」に東側へ向かい出口を目指す。

順治門

宛平城の東側にある「順治門」に到着。

「宛平城」の説明。

「順治門」

宛平城の東側にある「順治門」を出て、少し歩くとバス停があった。そこからバスで終点の北京西駅へ向かう。

北京西駅

バスに乗車し20分程で北京西駅前に到着した。

この頃、17:30過ぎ。この後、夕食を食べるため地下鉄で前門へ向かった。