北京
北京市地下鉄1号線
既に14:00を過ぎていた。全聚徳で食事をし、この時間から行けるを考えていた。2つの候補地が思いつく。一つが「北京首都博物館」。もう一つが「中国歴代帝王廟博物館」。どちらもマイナーな場所であるが、以前から気になっていた場所である。どちらも方向が同じなため、とりあえず地下鉄1号線に乗りながら考える。
悩みに悩み、「西単」で下車して地下鉄4号線に乗り換えた。そのまま乗り換えをせず、「木樨地」駅まで行けば北京首都博物館に到着する。つまりもう一つの方の選択をした。
地下鉄「西四」駅
「西単」で地下鉄4号線に乗り換えて2つ目、「西四」駅に到着。
広済寺
駅の近くに「広済寺」というお寺があった。仏教の寺院で中国仏教境界と中国仏教研究所が寺院内にあるらしい。漢字と満州語、蒙古語と思われる文字で書かれた碑石があった。何となく興味はあったが、目的地へ急ぐため、ここへは立ち寄らなかった。
阜成門大街を阜成門駅方向へ進む。途中で見かけた四合院がある路地。
中国歴代帝王廟博物館
地下鉄「西四」駅から徒歩10分程で「中国歴代帝王廟博物」へ到着した。ここもWeb予約制であるが、当日予約でも入場が出来る。
入口にQRコードがあり、スマホでスキャンすると登録案内が表示され、必要事項を記入して登録が完了した。主な記入内容は身分証種類(パスポートを選択)、身分証番号(パスポート番号)氏名、電話番号(適当に135・・・11桁)を入力。支払いは現金でも受け付けてくれた。入場料は20元。
ここは「地球の歩き方 北京」にも記載されおり、中国歴代王朝の皇帝たちが祭られている場所である。明の初代皇帝洪武帝(朱元璋)時代に創建され、その後、清に引き継がれ、辛亥革命まで歴代帝王を祭る施設として機能していた。
中へ入ってみる。今回の旅行で、初めて観光が出来る場所に入ることが出来た。
景徳崇聖殿
廟の中へ入ってみる。
ここは明初代皇帝洪武帝(朱元璋)が創建した。暗愚で無能な皇帝、天下に害をなした皇帝は除外されている。初めて中国を統一した秦の始皇帝は、悪名高いせいか当初から除外されている。征服王朝皇帝を含めるかについては、明の時代、皇帝が変わるたび祭る対象が入れ替わっていたが、清の時代になると、全面的に対象に加えられた。ここは明の時代に創建された廟であるが、清の康熙帝は亡国の禍根をつくったとして、明の万暦、泰昌、天啓の3皇帝を排除した。「新」の王莽や「後漢」の阿斗は今も祭られていない。
三皇の神位
三皇の神位。
三皇については古すぎてよく分からない。
五帝の神位
五帝も同様。ここまでは歴史ではなく神話の世界。三皇と五帝から「皇帝」と言葉が生まれ、秦の始皇帝は王を凌ぐ称号として採用した。
始皇帝が崩御し、項羽が秦三世皇帝を滅ぼし、「覇王」と称したが、劉備が項羽を滅ぼし、再び「皇帝」を名乗り、その後、中国統一王朝の君主の名称として引き継がれた。
夏・商王朝の神位
ここからが歴史の始まり。自分が世界史をやっていた頃、「夏」王朝は伝説の王朝であったが、それから遺跡が見つかって、実在していたことが判明した。
周王朝(西周・東周)の神位
漢王朝(前漢・後漢)・三国・東晋・南北朝の神位
周から漢へ時代が飛んでいる。確かに「秦」の時代の神位がない。前漢から簒奪した「新」の王莽の神位も無い。三国時代は蜀漢の劉備1名だけ、曹操や孫権の神位も無い。
唐・五代・遼、宋(北宋・南宋)の神位
細かいことを言うと、唐の時代、一時中断して則天武后の「武周」が存在したが、完全にスルーされている。
また五代十国の「十国」時代がスルーされている。
写真がぶれてしまった。
金・元・明王朝の神位
明は16名の皇帝がいたが、清の康熙帝に排除された万暦、泰昌、天啓の3皇帝の3皇帝の神位は確かに無く、13皇帝分の神位しかない。
天井の様子。
故宮博物院の宮殿並みに立派である。
神位が置かれている左端に置かれていたもの。
外へ出てみた。皇帝陵墓には必ずある石碑があった。
亀の背中に石碑が置かれているこのつくりは、どこも陵墓も同じ。この石碑は誰を奉っているのかは不明。
歴代皇帝資料館
神位が置かれている廟とは別な建物に「歴代皇帝資料館」があったので入ってみた。
明初代皇帝の洪武帝朱元璋。この肖像画は世界史教科書にもよく載っているが、実際はこのような凛々しい顔立ちではなく、とても醜い顔をしていたらしい。
清3代皇帝順治帝。清の入関後初代皇帝として扱われることもある。
6歳で即位し、24歳で若くして崩御した。しかし実際には出家し、山西の五台山へ隠遁したとの説もある。
清朝4代皇帝康熙帝。8歳で即位し、61年間在位した。
日本の昭和天皇が崩御するまで、世界歴代君主の中で最も在位期間が長い皇帝であった。中国史上最も名君と称えられている。
右側は康熙帝の狩猟の様子。真ん中は清朝2代皇帝ホンタイジの皇妃で、順治帝の生母である孝荘太皇太后。
清5代皇帝雍正帝。在位期間は13年と短いが、康熙、雍正、乾隆の「三世の春」と呼ばれる、清朝最盛期を築き上げた。
「軍機処」を設立し皇帝独裁権を確立させ、対外的に5回親征を行っている。青海省を版図に入れ、ロシアとキャフタ条約を締結し、国境を画定させた。
「大義覚迷録」では異民族である満州王朝の、中華帝国支配の正当性を論破した。
清6代皇帝乾隆帝。清朝最盛期の最後の皇帝。
25歳で即位、清朝最盛期時代の皇帝で、89歳で崩御した。在位60年の年、祖父の康熙帝の治世を越えてはならないと、第15子永琰(嘉慶帝)に譲位したが、その後も院政を敷いて権力を手放さなかった。晩年は認知症の症状がみられ、害をなしていた。この頃から傾国の陰りが見えはじめている。
敷地内にある建物の様子。
マイナーな場所であるが、意外と興味が引かれる場所でもある。ここには1時間半滞在していた。