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北京/明十三陵 長陵、定陵と非公開陵墓巡り 2023年夏の北京旅行⑥

北京

万明路と東方飯店

朝7:00過ぎホテルを出る。

今日はこれから明十三陵へ行く。少し遠出になるので、早めに行動した。

ホテル目の前の万明路の様子。

100mほどで珠市口西街に出る。

明十三陵まで地下鉄が開通しているので、地下鉄でも行ける。しかし地下鉄駅の所在地が十三陵のどの辺にあるのかがよく分からない。そのため一般ルートに従い徳勝門からバスで行くことにした。

地下鉄7号線「虎坊橋」

宿泊していた北京東方飯店から徒歩10分程で地下鉄7号線「虎坊橋」駅に到着。

ここから徳勝門のある地下鉄2号線「積水潭」駅へ向かう。

「虎坊橋」の隣駅「菜市口」で地下鉄4号線に乗り換え「宣武門」へ移動。

「宣武門」で地下鉄2号線に乗り換え、「宣武門」から6駅先の「積水潭」へ移動。

地下鉄2号線は1969年から1984年にかけて開通し、北京城壁の真下を走る環状線となっている。

古くからある地下鉄でレトロ感がある。

途中で見かけた広告。8/11~8/13国家体育館のイベントで、16時以降8号線のオリンピックセンター駅が封鎖されるらしい。

途中で見かけた広告。「大窑(dayao)」というソーダ水で3種類の味があり、ビール瓶に入っている。夕食を食べた蘭州拉麺店の店で毎回注文していた。店では1本8元だった。

地下鉄2号線「積水潭」

地下鉄2号線「積水潭」駅下車。地上へ上がるエスカレータの手すりにあった「農夫山泉」の広告。昔からある中国各地で売られている水である。中国にはいろんな水のメーカーがあり、自分は好んでこのメーカーの水を買っていたことはないが、今回の北京旅行を通し、北京観光地各所でこのメーカーの水ばかりが売られていた。まさに一人勝ちしているような状況だ。毎日ホテルに置かれている水もこのメーカーのものだった。

地上へ出た。この駅は「徳勝門」最寄りの地下鉄駅である。その他、「宋慶齢旧跡」「恭王府」「后海」など観光地もこの駅から徒歩圏内で行ける。

ここから「徳勝門」まで歩いて行くが、出口を誤った。C出口に来てしまったが、B1かB2の方が徳勝門により近かった。

地下鉄2号線「積水潭」駅から「徳勝門」までは徒歩10分程度。B出口から出れば5分程度で着くと思う。「徳勝門」が目立つので迷うことはないが、周辺は高速、一般道が入り乱れ、どうやって行けばいいのか少し分かり難い。

徳勝門

徳勝門。ここから万里の長城の「八達嶺」までの直通バスが出ている。八達嶺行きのバスが頻発しているが、同じ方向の「明十三陵」行きバスも出ている。

徳勝門の物語

1439年建設。周囲の城壁は新中国建国後に取り壊されてしまったが、北京城防衛の歴史がある。1449年、明の正統帝が「土木の変」で捕虜となり、エセン・ハンは徳勝門城外で明に対し、元皇帝を丸裸にして見せしめとし、侮辱した。1644年4月には順軍率いる李自成がここから入城し、明を滅ぼした。そしてすぐ山海関にいる呉三桂討伐のため、徳勝門から意気高揚に出陣したが、呉三桂が下った清軍に追われ敗走し、徳勝門へ這い戻ってきた。その数日後、李自成は北京を放棄して逃亡し、清軍が北京に入城した。李自成が天下を取ったのは40日間であった。

前方にはかなり多くの人がいる。ここに来ているほとんどの人が「八達嶺」行バスに乗る乗客だ!

「八達嶺」行きバスには絶望的な程の行列が出来ていたが、バスがかなり頻繁に出発している。その光景をよく眺めていると2~3分間隔でバスが出ており、それほど待ち時間はかからなそうだ。

そして自分の目的地である明十三陵「長陵」行きのバス停を発見!872路のバスだ。バス停を発見して喜んだのも束の間、誰もここで待っておらず、本当にバスが来るのか不安になる。

八達嶺行きのバスが頻繁に出発していく。872路のバスは全く来る気配がないく、焦り始めた頃、ようやく872路のバスがやって来た。15分程待った。

8:30頃、872路のバスは出発。ちなみにバスの時刻表などはなく、ただただ待って、来たバスに乗るしかない。ホテルを出てから1位間半ほど掛かってしまったが、とにかく無事に出発できてホッとした。

徳勝門を出てすぐ渋滞にはまる。しかし1449年、この辺でオイラートのエセン・ハンが陣を張って明軍と対峙していたかと思うと、なんか感慨深くなる。

十三陵手前の街を通過中。写真がぶれてしまったが、ノーヘル3人乗りのバイクを見かけた。中国ではよく見かける光景であるが、普通に考えてかなり危ないと思う。

十三陵ダム

徳勝門から約1時間、十三陵ダムが見えてきた。

本来なら、この澄んだ奇麗な風景を見て、心打たれる思いをするかもしれない。

だが複雑な心境が蘇る。

この日は8月12日。7月末に北京、河北省で数日間に渡り大雨集中豪雨が発生。このダムが決壊すると北京市中心部に影響が出るため、十三陵ダムは放水された。それにより北京市郊外及び河北省琢洲で大洪水が発生した。

大雨集中豪雨から2週間程経ち、今は何事も無かったかのように落ち着いている。

この後、タクシーの運転手から聞いたが、当時この周辺、実際にもの凄い状況であったらしい。また大雨の影響で明十三陵も暫く閉鎖されていたが、ちょうど訪問した8月12日から再開されたとのこと。

北京市徳勝門からバスで1時間15分程で明十三陵の一つである「定陵」へ到着。

とりあえず終点の「長陵」まで行くため、そのまま乗車。

「定陵」を経由し、バスで5分程で「長陵」へ到着した。

長陵(第3代永楽帝陵墓)

長陵へ到着した。長陵は明朝3代皇帝の永楽帝の陵墓である。明十三陵の中で最大規模を誇る。またここ明十三陵は2003年に「明・清王朝の皇帝墓群」として世界遺産に登録された。

現在、十三陵ある陵墓の中で「長陵」「定陵」「昭陵」の3陵墓が公開されている。しかし今回自分がやって来たのは、これらの陵墓を見学するためではない。主目的は非公開陵墓を回ること。

そのためここに長居をするつもりはない。

過去1度ここへ来たことがあるが、記憶に残る印象がない。既に20年以上経っている。

せっかく来たので見学しようか迷う。長陵は明十三陵最大規模であるため、陵墓の中が広そう。

明十三陵の分布図。広大な地域に13の陵墓が点在している。これから他の陵墓へ行くことを考えると時間がかかりそうなので、長陵見学を躊躇う。

チケット売り場。ここも事前登録制となっているせいか、チケット売り場に人がいない。それどころか、ビニール線が張られていて、立ち入り出来なくなっている。自分は事前登録しておらず、チケットも売られていない。迷うまでもなく長陵見学の選択肢は無くなった。

早々に長陵を後にする。そして先ほどバスで寄った「定陵」へ向かった。

バスがいつ来るのか分からないので、定陵まで歩いて戻る。途中、多くのツーリストとすれ違う。天気はいいし、緑は多いし、この辺一帯はツーリストにとって人気の場所らしい。

山の麓に陵墓が見える。方向的に「昭陵」である。明朝第12代嘉靖帝の陵墓だ。

定陵へ向かう途中、「献陵」の標識があった。

標識の方向へ少し歩いてみた。百度地図で調べたら、献陵はここからかなり遠いことが分かり、すぐに引き戻った。それとあまりにも暑すぎて、こんな日陰のない道、とてもじゃなが歩いてられない。

定陵(第14代万暦帝陵墓)

長陵から徒歩20分程で定陵へ到着した。

定陵のバス亭へ立ち寄ると、ここ定陵から八達嶺まで、879路のバスが通っていることが分かった。

20分程歩いて来たが、猛暑の中だったので余計に疲れた。今回の主目的は非公開陵墓中心の観光と決めていたが足が無い。歩いて回れると大きな勘違いをしていた。13の陵墓が近くに密集している訳ではなく、陵墓一帯は広大過ぎて、徒歩で回るのは無理。どうしようか直ぐに思いつかないので、とりあえず目先の定陵観光を決意する。

写真には写っていないが、右側にチケット売り場があり、一つだけ窓口が開いていて販売員がいた。

ダメもとでチケットを買えないか聞いてみると、あっさりOKであった。定陵入場料60元。現金も受け付けてくれた。100元渡して40元のお釣りをもらう。改めて気が付いたが、10元札は新紙幣があり、新紙幣3枚くれた。

更に嬉しいことに、見学者は休憩所を無料で使用でき、無料で荷物も預かってもらえる。地図もくれた。冷房の効いた休憩所で少し休み、定陵見学へ向かう。公開陵墓の中で一押しなのがここ「定陵」である。理由は地下宮殿があるからだ。

ここへは過去2回来たことがある。前回訪問から20年経っている。

入ってすぐ、冷たい酸梅湯が売られていたので買ってみた。二元一杯。飲み物が芯から冷えていて、この酸っぱさが暑さと疲れを吹っ飛ばしてくれた。

ここ定陵は明朝14代万暦帝の陵墓である。

万暦帝の人物像

明朝第14代皇帝、在位期間1572年~1620年。この皇帝、暗愚極まりない割には日本でそこそこ知名度がある。名前の響きがいいのと、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際、援軍を送った時の皇帝であったためと思われる。またこの時代、一条鞭法の導入、東林党闘争、ヌルハチが女真族を統一し後金を建国するなど、世界史記載事項が多く発生したが、本人は何もやっていない。10歳で即位したが政治に無関心で、在位期間47年のうち、後半20数年は朝政の場に全く現れず、後宮で遊び耽っていた。この時代の庶民の平均寿命は30歳未満であったが、本人はその倍近い57歳まで元気に生き延びた。北京歴代皇帝廟博物館において、万暦帝の神位は康熙帝により排除された。1956年から1年かけ万暦帝の陵墓、定陵の発掘が行われた。その時の様子はYouTubeで見ることが出来る。発掘された遺体は1966年文化大革命の際、紅衛兵により2人の皇后の遺体と共にガソリンを撒かれ焼却された。

先ずは地下宮殿へ向かう。定陵内部は一方通行の観光ルートが決められいる。

地下宮殿の入口。

地下宮殿に入る前に、入口後ろに位置する円墳陵墓を見てみた。

ここの地下に棺が安置されていた。

円墳の陵墓であるが、外から見ると緑に覆われ、陵墓の地形がよく分からなかった。

再び地下宮殿入口へ戻る。

階段でかなり下まで降りた。都営大江戸線並みの地下の深さだ。外の暑さとは真逆で、地下の中は天然に冷えてて超涼しい。また湿度が高すぎて、足元がびしょびしょしている。

実際に棺が安置されていた場所。お金がバラ撒かれていたが、1元札か5角札ばかりであった。観光客が投げ銭をしたのではなく、定陵博物館側がバラ撒いたものと思われる。湿度が高い中、紙幣は乾いていて不自然である。今時、小銭なんか所持してる人も少ない。

地下宮殿にある「万暦帝宝座」。

玉座ならぬ宝座である。ここには遺体だけが安置されていた場所で、実際に座る者はいない。

地下宮殿の内部の構成図。

隣の部屋に棺と文物が保管されていたレプリカが置かれていた。

地下の中は冷んやりして居心地がいい。

地上へ登る階段。足元が濡れていて危ない。また結構な深さで下まで降りたので、登るのも大変であった。

地下宮殿の出口。

廟がある建物の後ろ側へ出てきた。

登ってみた。

何か文字が記載されているが、消えかかってよく見えない。

辛うじて万暦帝の廟号である「神宗」の文字が見えた。

廟のある建物から外を眺めてみた。

向こう側に別の陵墓が見える。万暦帝の先代であり父親の明朝13代嘉靖帝の陵墓「昭陵」だ。

一通りの見学を終え、出口へ向かう。

さっきと同じ場所で二元一杯の飲み物を買った。さっきは酸梅湯を飲んだので、こんどは緑豆湯にした。

酸梅湯の方が美味しく、内心失敗した!と思った。

見学を終え、定陵を出た。

定陵見学を終えたのが12:30頃。他の陵墓見学を徒歩で回るのは無理なので、タクシーで回ることにした。今時、ここへ来る観光客は自家用車が圧倒的に多く、タクシーが見つからない。そんな中、なんとか白タク運転手を見つけ、1時間120元で交渉成立した。

これから訪問する9ヵ所の陵墓の位置関連図。

長陵村

先ずは定陵から近い景陵へ向かう。

定陵から近いというより、バスの終点の長陵からの方が近い。長陵前を通過し、景陵へ向かう。この辺一帯は、近くの陵墓の名前がそのまま村の名前となっている。

景陵(第5代宣徳帝陵墓)

定陵から車で10分程、長陵から3分程で景陵へ到着。やはり車で移動すると早い。ここは明代5代宣徳帝の陵墓。非公開陵墓のため門の中には入れない。1424年に祖父である永楽帝が崩御し、父の洪熙帝が即位した。しかし父の洪煕帝は病弱体質と肥満で、即位後僅か1年で崩御してしまう。こうして宣徳帝は25歳で即位した。

門から最大限にズームして撮ってみた。

周辺の様子。

景陵は非公開で観光地化されておらず、ここから眺めるだけしかできない。見学時間2分程度。

次に献陵へ向かう。

献陵(第4代洪熙帝陵墓)

続いて献陵へやって来た。ここは第4代洪熙帝の陵墓である。長陵から定陵へ歩いている途中、献陵の標識があったが、あの場所から献陵まで歩いて行くには遠い。だけど車だと長陵の近くにある景陵から5分で来れた。

洪煕帝は永楽帝の嫡長子で1424年に即位した。しかし生まれつき病弱で肥満であり、即位後僅か1年で崩御してしまう。

在位期間は僅か1年と短かかったが、永楽帝により失脚した2代建文帝の臣下を釈放し財産を返却、国庫を圧迫する外征を行わず、節約に努めた。また北方民族による侵攻の危険性を考慮し、南京再遷都を検討していた。

ここ献陵も非公開陵墓であるが、外から見た感じでは非常によく手入れがされていて、きれいな状態を保っている。

観光時間1分程で終了。

慶陵(第15代泰昌帝陵墓)

続いて第15代泰昌帝の陵墓。献陵のすぐ近くにある。泰昌帝は14代万暦帝の長男で、即位前は皇太子に立てられていた。父の万暦帝が1620年8月18日に崩御し、8月28日に即位したが、翌月9月26日に崩御した。

在位期間僅か1ヵ月の治世で何をしたという功績も無い。陵墓の門は崩れかけ、手入れがされていないようだ。

それを覆い隠すかのようにグレーの鉄板壁が張り巡らされ、外から見えなくしている。

写真ではわかり難いが、陵墓内の建物屋根もボロく、長い間、手入れがされていないようだ。

誰も訪れない慶陵の前で、切なく果物が売られていた。

裕陵(第6代正統帝、第8代天順帝陵墓)

慶陵から車で3分程で裕陵へ到着。ここは第6代正統帝、第8代天順帝の陵墓である。世界史選択者ならお馴染みの皇帝で、1人の皇帝陵墓である。第6代正統帝が1449年、親征途上の土木堡でオイラートのエセン・ハンに捕まって捕虜となり失脚、その後、復辟して第8代天順帝として即位した。名称が2通りあるため廟名の「英宗」とも通称で呼ばれている。

ここは見た感じ比較的手入れがされているようである。

門は木調風で風格があるが、レンガの壁が崩れかけている。

門の前に緑の柵があるが、誰もおらず、下から潜れたので柵の中へ入ってみた。

門の下の隙間から覗いてみた。何も見えなかった。

別な場所から屋根が辛うじて見えた。中の様子を見るのはこれが限界だった。

この陵墓周辺も、陵墓の名前を取って裕陵村という。

茂陵(第9代成化帝陵墓)

茂陵へ到着。ここは第9代成化帝の陵墓である。周囲は鉄の柵で囲まれ、門の近くには近づけない。

成化帝は第6・8代英宗の長男で皇太子に立てられていたが、父の英宗が1449年土木の変で捕虜になると廃位され、父が再び復位すると再度皇太子となった。

成化帝は晩年、19歳年上の乳母を寵愛して万貴妃として封じた。この万貴妃が嫉妬深い女性で、成化帝と他の王妃と間に懐妊があると尽く堕胎させ、成化帝の世継ぎが出来ないという事態が起きた。

鉄の柵の周辺から、いろんな角度で写真を撮ってみた。

乗って来た白タクの車。運転手さんの人相が狂暴で写真を撮れる雰囲気はなかったが、とてもやさしく、理解力のある人であった。

次に泰陵へ向かう。茂陵と泰陵は少し離れている。

泰陵(第10代弘治帝陵墓)

泰陵に到着。ここは第10代弘治帝の陵墓である。

見た感じ、陵墓は現在修復中のようだ。

ここも非公開陵墓で、これより先には入れなかった。

ズームで建物の様子を撮ったが、これが限界。

弘治帝の父である成化帝の寵妃万貴妃は、成化帝と他の皇妃との間に懐妊があると尽く堕胎させていたが、弘治帝は宦官により密かに育てられ成人した。このことを知った万貴妃は弘治帝の暗殺を謀るが失敗し、1487年憤死した。万貴妃の死に悲嘆した成化帝も同年崩御した。弘治帝の生母は今の広西チワン族自治区に住む少数民族ヤオ族の土司の娘である。

康陵(第11代正徳帝陵墓)

康陵に到着。今回訪問した明十三陵で最後の陵墓である。

ここは第11代正徳帝の陵墓。非公開陵墓であるが、見た感じかなりキレイに整備されいる。いつでも一般公開できるような状態であった。

この皇帝、名前は立派であるが、とてつもなく暗愚な皇帝である。

正徳帝は奇行が目立つ軍事マニアで、この治世、比較的平穏な状況が続いていたが、親征を繰り返していた。

敵がいない中での親征の目的は地方美女の誘拐であったらしい。度重なる無意味な親征で財政が圧迫し、それを補うため重税を課し、国が傾いていった。

正徳帝は親征名目で散々外で遊びまくっていたが、嗣子を残せず、次期皇帝は傍系に移ってしまった。本人は水遊び中、船から落ち、それが原因で31歳で崩御した。明滅亡の要因はこの治世から始まった。

ここ康陵は非公開陵墓であるが、とてもキレイに整備されていて、このような真新しい看板も設置されていた。間もなく公開陵墓となるかもしれない。どういう基準で陵墓が公開されるか分からないが、皇帝の人格は全く関係なく、現実的に修復にお金がかからず、収益力の見込める陵墓から順に公開されていくんだなと勝手に思っている。

手前バイクの後ろの車が今回乗って来た白タク。今回7ヵ所の非公開陵墓を回ったが、どこも滞在時間は5分以内であった。

非公開陵墓の見学を終え、定陵へ戻る。来る時もたくさん見かけたが、明十三陵近辺ツーリストが非常に多い。この辺一帯、緑も多いし、ダムもあり、ツーリストにとっては北京市内から日帰りで気軽に来れる快適な場所なのだろう。

運転手によると、2週間前の集中豪雨時、ここの川も決壊寸前であったらしい。

13:30頃、定陵のバス停に戻り、ここで下車した。実質40分程の非公開陵墓観光であった。今回2ヵ所の公開陵墓と7ヵ所の非公開陵墓、合わせて9ヵ所の陵墓を回った。残り4ヶ所あるが、場所的に離れているので今回行くのを見送った。

予定していたよりも早く明十三陵見学が終えられたので、バスで八達嶺長城へ行くことにした。しかし先日の集中豪雨の影響で、八達嶺行きバスが運休していることが判明。ここで待っていたら、近くでバスを洗っている人がいて、教えてくれた。

先ほどの運転手を再度探して、見つけた。八達嶺までいくらか聞くと、現在八達嶺は事前予約が必要になり、予約無しでは多分入場できないという。もう一つの近場の長城である居庸関長城は予約無しで入場できるので、居庸関長城を勧められた。定陵から10㎞ほどで30分で着くという。料金は先ほどと同じ120元でいいというので、居庸関行きをお願いすることにした。