カシュガル
香妃墓(アパク・ホージャ墓)前駐車場
博物館前から香妃墓までやや遠いのでタクシーで来た(10元)。実質、カシュガル博物館から5㎞程だ。
運転手はウイグル族で、普通話(マンダリン)は伝わりにくい。会話にならなかったが、地名の漢語発音は理解してもらえた。こちらもウイグルに行って、ウイグル語が理解できずに申し訳ない思いをした。
車が乗り入れる場所から、実際の入口まで少し歩く。
ウイグルなので当然だが、建物が中華風ではない。
途中、大規模工事をしていた。
墓地のようであるが、最終的にどういう姿になるのかが想像できない。
香妃墓(アパク・ホージャ墓/阿巴克霍加麻扎)
駐車場から徒歩7~8分で入口に到着した。
モスクを連想させる奇麗な建物だ。
門のタイルの模様。
香妃墓とは、阿巴克霍加麻扎(アパク・ホージャ墓)のことで、新疆イスラム教白帽派の領導アパク・ホージャとその家系の陵墓。
清朝乾隆帝のウイグル族出身の王妃(和卓氏容妃)もここに葬られたと誤伝され、香妃墓と別称が付いたらしい。実際のウイグル王妃のお墓は河北省清東陵の乾隆帝陵墓裕陵内にある。
入場券売り場。テント屋根下に隠れた変な場所にあり、なかなか見つからなかった。
入場券30元。
立派な建物た。
17世紀、乾隆帝時代に新疆は清の支配下に置かれたが、それまではウイグルのホージャ氏がこの辺を治めていた。ここはそのホージャ氏の墓地となっている。
タイルの模様。
外壁の模様。
建物内部撮影は禁止で、係員が見張っている。そのため建物外から望遠で撮ってみた。
廟の後ろには一族のお墓がたくさんあった。
かなりの数の墓がある。
香妃墓の説明、、・・・読めない。
ウイグル文字は漢字と逆で、右から左へ読む。
漢訳文。どっちが原文だろうか?
このウイグル王妃は1788年、55歳で北京で逝去した。ちなみに乾隆帝が崩御したのは1799年である。乾隆帝時代に新疆が清朝に服属し、その王妃となった容妃については、死後、さまざまな伝説が誕生した。しかしながら当時の時代、支配体制に都合のいいような伝説がいくつもあり、どれも信憑性がない。
しかしウイグル王女が乾隆帝の王妃となったことで、その一族も手厚い保護を受け、このような墓地が作られたのは事実で、今尚、現存している。
墓地内を周回する。
別の建物があった。
イスラム建築については詳しくないが、礼拝堂のような場所になっている。
誰もいない。
最後にもう一度、壁のタイル。近くで見ると汚いが、少し離れた場所から全体を眺めると、美しさが映える。
40分程で香妃墓の見学を終え、少し周辺付近を探索する。
周辺全て取り壊しが進行中だ。
子供がいたので「你好!」と声をかけてみた。
すると「你好!」と返ししてくれた。
「何族」と聞いたら、もちろんながら「維族!」(ウイグル族)と返って来た。
5年後に来たら、この辺、雰囲気が一変しているだろう。
ウイグル式建築物に翻る五星旗。
そろそろバス停の方向へ向かう。香妃墓から一番近いバス停まで徒歩15分くらいかかる。
行きはタクシーで入口まで連れて行ってもらったが、ここへ初めてバスで来ると、香妃墓入口がどこにあるか分かり難いかもしれない。
自分はタクシーで来た時、このバス停が見え、ここで左折したので、バス停の位置を把握してた。
20路と3路のバスがあるが、たまたま20路のバスが宿泊しているホテル近くまで行くことが分かり、一旦ホテルへ戻ることにした。
老城区中国郵政停留所
20路のバスでホテル近くまで1本で来れた。
少し部屋で休み、その後、「フス・ハズ・ジャジェブ墓」へ行く。
少し休んだ後、「フス・ハズ・ジャジェブ墓」へ向かう。ホテルから近いので、ホテル隣にある人民広場を横切り、歩いて行く。
「歩き方」によると、この小学校の敷地にあるらしい。だけど中へは入れない。
門のところに指名手配者らしい写真が掲示されていた。すべてウイグル語表記なので解読できず。
ユスフ・ハズ・ジャジェブ墓 (王素莆・哈斯・哈吉莆麻扎)
小学校を半周して、見つかった!
ユスフ・ハズ・ジャジェブ墓(王素莆哈斯哈吉莆麻扎)。この人はカラハン朝時代の大侍従で、文学者でもある人物だ。
入場料は30元。ネットで調べたこの場所の口コミ評判があまり良くない。理由は見るものが少ない割に30元もするためだ。外から中の棺と本人らしき肖像絵画も見えたので、中へ入るのは辞めた。実際に見るものはこれだけらしい、見学終了!
こちらは門壁のタイルの模様。
もう一種類。
この後、エイティガール寺院へ行く。
体育路を歩いてバス停のある解放路へ向かう。
近くの体育路バス停から次なる目的地、エイティガール寺院までバスで行く(1元)。8路のバスで4つ目。
バス停でバスを待つ人たち。