承徳
避暑山荘
14:00頃、外八廟2ヵ所の観光を終え、再び避暑山荘へ戻って来た。
ここ避暑山荘は、周辺にある12の廟寺で構成する外八廟とともに1994年に世界遺産に登録された。
チケットは午前中に外八廟との共通券を130元で購入済み。
避暑山荘及び周辺の寺廟の案内。共通券は4/1~10/30まで130元、11/1~3/31は90元、開園時間は5/1~10/90は7:00~18:00、10/10~3/31は8:00~17:30。
避暑山荘の案内。ここ避暑山荘は1703年から1792年まで、康煕、雍正、乾隆の三朝を通じ89年の歳月を経て完成した。北京の頤和園と共に現存する清朝の皇家園林の一つで、また中国四大庭園の一つにも数えられ、その中で最大規模を誇っている。山荘の造園方法としては、自然を最大限に活用し、園内は出来る限り装飾を施さない手法が用いられ、また南方の秀逸さと北方の逞しさが融合された壮麗な景観が見られる。
日本語の説明もある。
清朝皇帝は中華皇帝と君臨していたと同時に、周辺少数民族の大汗(ハン)としても君臨しており、蒙古、チベット、新疆などの周辺民族の王とは主に承徳で謁見していた。1年のうち5月~10月頃は避暑山荘で政務を執っており、一年のうち熱河(現承徳)に滞在している期間は意外と長かった。
敷地内には康煕三十六景と乾隆三十六景なる計72か所の景観地点がある。同じく世界遺産に登録されている杭州西湖も所々に名前が付いた景観地点がある。時間的に全てを回れるわけないが、この後、適当に散策した。
乾隆三十六景の風景名称。
避暑山荘の内部は宮殿区、湖泊区、平原区、山岳区の主に4つの地区で構成されている。
徳匯門から入り、先ずは宮殿区を目指す。
後で知ったが避暑山荘には入口が2つ、「徳匯門」と「麗正門」があり、麗正門から入ると宮殿区はすぐ目の前にある。入る時、バス停から近い徳匯門しか気が付かなった。ちなみに「麗正門」が避暑山荘の正門らしい。
宮殿区
徳匯門から徒歩5分ほどで宮殿区の入口へ着いた。
「避暑山荘」の額縁。
淡泊敬誠
避暑山荘の正殿である「淡泊敬誠」。
「淡泊敬誠」は康熙帝により命名され、1711年に造営が開始され、1754年乾隆帝時代に楠記を用いて改建された。
真夏の午後のまったりとした時間帯。避暑地だけあって暑すぎず、人も多すぎず、観光にはちょうどいい感じだ。
淡泊敬誠の玉座。
室内の様子。
額縁の「淡泊敬誠」は康熙帝の筆跡。
建物後ろへ通り抜けられるようになっており、後方から眺めた室内の様子。
四知書屋
「淡泊敬誠」の後ろにある「四知書屋」。
「四知書屋」は清朝康熙帝時代の1711年の創建で、康熙帝により「依清曠」と命名されたが、1786年乾隆帝により「四知書屋」と改称された。
「四知書屋」の前にある、避暑山荘正殿の「淡泊敬誠」で皇帝が政務をとるため、ここ「四知書屋」で皇帝は休息や着替えをしたり、また少数民族の王族とここで謁見した。
汚れたガラス越しに写真を撮っているため、写りが悪い。
建物内部に康熙帝の朝服像が飾られていた。
清朝皇帝の一覧表。
乾隆帝の戎装像。
煙波致爽(北京条約批准現場)
続いて「煙波致爽」。「四知書屋」の後ろにある。
清朝康熙帝時代の1710年創建で、皇帝の居所、寝室として使われていた。
幅7間、奥行3間の建物で、中央には玉座が設けられ、皇帝はここでで后妃たちの拝謁を受けていた。
「煙波致爽」の左右両側には皇后や皇妃の居室もある。
仏堂。
また1860年、英仏連合軍の北京侵略により、ここ熱河へ逃亡してきた咸豊帝はここ「煙波致爽」で不平等条約である「北京条約」に批准した。
これも世界史受験選択者には暗記必須の事項である。1860年「北京条約」締結により、清は香港島に隣接する九龍半島地区を英国に割譲(香港島は1842年の南京条約で割譲)、天津港の開港、英仏への賠償金の支払い、清朝により没収された教会財産の返還を余儀なくされた。
西所
「西所」。「致有爽気」の西側にあるので、「西所」と呼ばれる。
咸豊帝の熱河滞在時、一緒に来ていた当時の皇妃である懿貴妃(のちの西太后)はここに居住していた。
雲山勝地
「煙波致爽」の後ろにある「雲山勝地」。
額縁の字は康熙帝の直筆。
この「雲山勝地」は避暑山荘宮殿区の一番奥、最後方にある。
建物一階の中の様子。
ここ「雲山勝地」の楼閣の特徴として、建物は2階建てとなっているが、建物内に2階へ上る階段が設置されていない。
建物前に石でできた築山があり、2階へはここを登って上がる構造となっている。現在2階へは上がれないが、2階からは湖景区の景色、外八廟の普楽寺、磬錘峰が一望できるらしい。
宮殿区を出口へ出た。
避暑山荘風景区
如意湖
如意湖。ここは乾隆三十六景の一つに数えられている。
水流雲在
水流雲在。こちらは康煕三十六景の一つに数えられている名所である。
煙雨画境
西嶺宸霞
西嶺宸霞。
康煕三十六景の一つ。
煙雨楼
続いて澄湖の中にある「煙雨楼」へ向かう。
煙雨楼へ向かう湖の橋の上から磬錘峰が見えた。
額縁の字は乾隆帝の直筆。
「煙雨楼」は乾隆時代の1780年に建設された。ここは乾隆帝が南方巡回をした際、浙江省嘉興南湖の鴛鴦島にある煙雨楼に魅了され、それを模して建設された。
避暑山荘内はやはりとてつもなく広く、回ってもきりがないので16:00過ぎ頃、観光を切り上げた。
麗正門から外へ出た。売店で日傘がたくさん売られていた。何となく興味はあるが、日本で実用的には使えないので買わなかった。
何かよくわからないが、鮮やかな色をした果物が売られていた。少し周辺をぶらついて、16:40頃、タクシーで承徳南駅へ向かった。