安徽省

烏江/項羽自害の地 南京訪問記①

楚漢戦争「垓下の戦い」

南京に滞在していた時、現地の地図を見ていたら、市の外れに「覇王廟」という場所があることを偶然発見した。もしやと思い調べてみると、劉邦との「垓下の戦い」で敗れた項羽が、最後自分の首を刎ねて死んだ場所であることが分かった。

南京→和県烏江

興味津々で早速行ってみることにした。公共交通機関で行く術がなく、南京から半日車をチャーターした。

南京は江蘇省にあるが、烏江は安徽省馬鞍山市和県に属する。

項羽本記

項羽の最後の様子は、司馬遷「史記」の項羽本記に記載されている。高校漢文教科書にも載っていることが多い。垓下の戦いで敗れ、烏江という場所まで逃れてきた。ここで亭長が船で川を渡り、再起を図って欲しいと申し出るが、「天が我を滅ぼそうとするのに何故渡れるか」と言い、最後は自分の首を刎ねて自決してしまう。

安徽省馬鞍山市和県烏江鎮

烏江

宿泊していた南京市内の新街口にあるホテルから烏江までおおよそ車で1時間くらいだ。

ここを渡ると安徽省に入る。それにしても川幅が狭い。

西楚覇王霊祠

烏江を渡り、覇王廟へは5分位で着いた。入場料20元。

覇王廟は正式には「西楚覇王霊祠」という。

中へ入り、先ず鼎があった。
伝説によると項羽はこれを重量挙げ選手のように持ち上げられたらしい。このことから「鼎を扛ぐ」(腕力の強い例え)の故事が生まれた。

自分では、とてもじゃないが無理だ。

覇王項羽像

項羽の像。

等身大のようだ。

項羽は身長190㎝近くあったらしい。当時としてはかなり珍しいかもしればいが、同じ時代、兵馬俑から出土している兵隊の身長も、現代人の身長よりも平均高いらしい。この時代、食べ物に何か特徴があったのだろうか?

一瞬、目が合った。

棺が置かれていた。

廟から見えた外の景色。

廟内には白いきれいな花が咲いていた。

残念ながら虞美人草(ひなげし)の花ではない。

運転手の馮さん。中国式の香を焚いていた。運転手やガイドは無料で入れた。

駐騅河

項羽の愛馬・騅が死んだ場所。


騅を譲り受けた亭長は項羽の死後、騅を一生懸命に飼育したが、主人を失った騅は心深く傷つき、食欲不振となって数日後に死んでしまった。

「騅逝かず」という故事があるが、志と違って物事が思い通りにいかず、苦境に陥る例えで用いられる。

烏江亭

抛首石

「抛首石」と記載されているが、ここで項羽は自決(自刎)したらしい。
万歳をするような態勢で大刀を両手で持ち、首を前屈みにして一気に力任せで刀を引き下げ、斬首する自殺方法だ。古代に見られた方法であるが、よほどの怪力がないと出来ないらしい。楚軍としては敗走したが、最後まで項羽本人を倒せる強者はいなかった。

廟の外の様子。

外へ出れる道があったので、出てみた。

烏江の土手

2000年以上前、「史記」に記載されていた状況とは異なり、現在は川幅が狭い。

これでは船で逃げてもすぐに漢軍に追い付かれてしまう。

2000年以上も前の事なので、当然地形も変動しているはず。

当時はもっと川幅が広かったに違いない。

そもそも烏江は長江ではなく、長江へと流れる支流である。亭長の提案した船での逃亡ルートを現在の地形で示すと、上図の赤矢印の通りになると思う。

馬鞍山市和県烏江鎮

1時間半ほど覇王廟とその周辺を散策し、南京へ戻った。写真は烏江にか掛かる橋から安徽省側の烏江鎮を見た様子。

橋を渡っているとき、ちょっとした混雑で停車したので、車を降りて川の写真を撮ってみた。

やはり川幅が狭すぎる感じがする。
漢文の世界では、亭長が語るその目の前に、雄大な大河が流れているイメージがある。

それは長江ではなく、「烏江」と記載されている。

歴史の感傷に浸る間もなく、ここで長居はできないので、すぐさま車へ戻った。

南京

南京市烏江

南京市側に戻る。

南京市は江蘇省なので、省を跨ぐことにもなる。烏江を渡った南京市側の地帯も「烏江」という地名らしい。

2022年時点では「覇王廟」近くまで地下鉄が伸びている。高鉄「南京南」駅から地下鉄S3線に乗車し、終点の「高家沖」で下車。そこから10㎞くらいの場所である。