運城/李家大院②李子用とマクティレン夫人 山西省の三大豪邸と平遥古城
運城
李家大院「一経楼」

続いて「一経堂」へと向かう。

「一経楼」の門。


一経楼の建物の前には李家15代当主・李子用と英国人妻・マクティレン夫人の像がある。



早速建物の中を見学する。



マクティレン夫人と子供の展示があった。オルガンを弾いている。

李子用とマクティレン夫人の間には2人の息子と3人の娘の計5人の子供がいた。

子供が半ケツを出しているが、これは中国の伝統的な「开裆裤」(股割れズボン)をはいているのである。以前はどこでも見かけたが、中国の経済発展に伴い、最近は見かけなくなった。

マクティレン夫人生涯の説明。1890年6月9日生まれで、1911年に李子用と結婚。1914年に李子用と一緒に山西省万栄県へやって来た。しかし彼らの結婚生活は長くは続かなかった。1917年末に李子用の父で李家14代当主・李敬修が病没し、その後の葬儀を取り仕切っていたが、心労が重なり、1918年9月8日に幼い子供達を残して亡くなってしまった。

当時の李家は、この地方一帯の最有力家系であり、その当主の葬儀はかなりの盛大で、且つ負担が大きいものでした。李子用は家業の引継ぎ運営に専念せざるを得ない状況で、葬儀運営の負担はマクティレン夫人に圧し掛かったのです。

こちらは西洋式の居間。李子用はマクティレン夫人のために一経楼の一部を西洋風のゴシック様式に改造した。

当主の李子用は、マクティレン夫人が西洋とは異なる環境下において、少しでも快適に過ごせるようにと細心の配慮を施されました。

お化粧台もある。

こちらは寝室。

このようなベットはどうやって調達したのだろう?当時の中国で作られたのか?英国から輸入したものなのか?李子用が中国へ戻って来た年は辛亥革命で清朝が滅亡し、中華民国が成立したばかりの、まさに激動の時期である。


1階部分は李子用とマクティレン夫人の居室の展示となっており、「自明堂」とも名付けられている。


続いて李子用の展示コーナー。


李子用がマクティレン夫人を伴って故郷の山西省万栄県に戻って来た時の様子の絵。当時、中国の内陸部で白人女性を見かける機会などほぼ無く、多くの群衆が集まって来たらしい。

李子用とマクティレン夫人が帰郷し、はじめて義父の李敬修と会った際、西欧式の頬を近づける挨拶をしたら、李敬修が大激怒し、その場でマクティレン夫人を殴ったとのエピソードがあります。それ以来、李敬修とマクティレン夫人の関係性は良くありませんでした。

李子用の生涯が紹介されている。

李子用の年表。1914年帰国、1915年家業を引き継ぐ、1919年李家15代当主になる、1937年日中戦争激化で西安へ逃避、1946年に万栄県閻景へ戻って来るも家屋は国家に没収(学校に転用)、1947年再度西安へ移住、1960年再び帰郷するが自宅は国家財産となっており、別の場所に居住、1966年郷里の閻景で病没。

李子用は李家15代当主を務めたが、日中戦争(中国では抗日戦争)で一族は離散。1938年には日軍が万栄県を占領し、建物の一部が日軍に使用された。終戦後、離散した一族がここへ戻ることはなかった。建物は学校へ転用された。

李子用の写真。マクティレン夫人との結婚により、当時としてはかなり珍しく、中国伝統家屋に西洋建築を取り入れ、豪邸に華を添えた。これらは美談に聞こえるが、李子用は生涯5人の女性と結婚している。ただ結婚期間中は妾を採ることは無く、死別などにより再婚をしている。

李子用の子孫たちの写真。

上の写真はマクティレン夫人との子供で、英国人の血が入っている。


壁にあったシカの影絵。


門には儒教の古典『礼記』の一説が刻まれている。

「大道之行也、天下為公。選賢與能、講信修睦」と描かれている。

「大道が行われていた時代には、天下はすべての人々の共有物であった。賢者や能力のある人を選んで政治を任せ、人々は互いに信頼し合い、親睦を深めていた。」という意味です。

最後にもう一度、李子用とマクティレン夫人の像。

彼らがここ山西省万栄県閻景で暮らしていた時期は、僅か6年に満たない期間であった。そしてその頃の中国は、まさに激動の時代であった。

彼らの像は滅んだ天朝のある北ではなく南を向いている。この山西省の片田舎で、彼らはどのような志を抱いていたのであろうか?
