北京市

北京/故宮博物院 北京訪問記②

北京

天安門広場

東清陵へ行った翌日、故宮博物院を見学するため、先ずは天安門広場へやって来た。宿泊していたホテルから徒歩30分程。

後ろを振り返ると見えるのが、人民解放記念碑と毛主席記念堂。毛主席記念堂の中には毛沢東の遺体が安置されていて、一般公開されている(時間は要確認)。

天安門

紫禁城午門

故宮博物院の入場口となっている午門。
故宮博物院はもともと紫禁城と呼ばれ、明の永楽帝以降、清の宣統帝まで、皇帝の居城であった。

武英殿

中へ入ると、左側「武英殿」が修復中であった。故宮博物院へ来たのは今回初めてではないが、必ずどこか修理していて、入れない場所がある。
1644年、明を滅ぼした李自成はここで即位した。しかしそれからすぐに清・呉三桂連合軍に敗れ、即位から約40日後に北京から敗走した。

大和殿

先ずは中央へ進む。
大和殿があり、ここで皇帝の即位式や宮廷内の重要な式典が行われ、この前の広場に官史たちはずらりと並んでいた。

中和殿

大和殿の後ろにある中和殿。

保和殿の玉座。
大和殿で行われた儀式の際の休憩所的な役割として使われていた。

背後から見た中和殿と大和殿。

保和殿

保和殿の玉座。
ここで科挙の最終試験である「殿試」が実施された。
「大和殿」「中和殿」「保和殿」を「前三殿」、または「外朝三殿」という。

軍機処

軍機処。
1729年に清の雍正帝が設立した。ジュンガル部平定のため軍事的な決定を迅速に行うためと皇帝権力の独裁化を進めるため。

隆宗門

隆宗門。
保和殿から乾清門へ向かう左手側広場にある門で、外朝から内朝区へ入る門の一つ。

この門の額に矢が刺さっているのは有名(写真では「宗」の字の左側、判別しずらい!)。
これは1813年に起きた白連教徒(天理教)の反乱時に放たれたものという説と、1644年に李自成が北京敗走時に放ったものとの2つの説がある。
ちなみに内朝地区へ入るのは皇族関係者しか許されず、内朝の門の額は全て満州語が併記されている。

保和殿の後ろ側。

乾清門

左側の門は「乾清門」。内廷への入口である。

内廷側の様子。

養心殿

康熙帝以降、ここは皇帝のプライベート居住区となり、執務等も執り行われていた。西太后が実験を握ってからは「垂簾聴政」がここで行われ、1911年の辛亥革命により、1912年2月宣統帝退位をきめた御前会議が行われた場所でもある。

養心殿の玉座。

乾清宮

乾清宮。
明から清の順治帝まで、皇帝の寝宮であった。康熙帝は養心殿にも寝泊まりするようになり、雍正帝からは皇帝の執務室、寝宮は完全に養心殿へ移った。

内廷なので、満州文字が併記されている。

乾清宮の玉座。

坤寧宮

西一長街

九龍壁

珍妃井

義和団鎮圧のため、1900年に八か国連合軍が北京へ乗り込んできた際、光緒帝が寵愛してた珍妃が西太后の命令によりここの井戸へ投げこまれ、殺された。

神武門

天安門から入り、後ろの神武門へ出た。

正確に言うと、故宮博物院の正門はここ「神武門」である。

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故宮博物院(紫禁城)の後ろには景山公園という築山がある公園があり、そちらへ向かう。写真の、あの築山の上の塔まで登る。

景山公園

入場料10元。

築山を登っている途中の景色。紫禁城の反対で、鼓楼が見える。

北海公園側の景色。

景山公園の築山上から見た故宮博物院(紫禁城)の景色。
まさに圧巻である。

築山の上の楼閣には休憩スペースがある。

30分ほど滞在し、下山する。

下山した麓に碑文がある。
1644年李自成の乱が勃発し、北京を責めた際、明朝最後の崇禎帝はここにある木で首を吊って自害し明朝は滅亡した。首を吊った木は文化大革命の時に切り取られてしまったが、その後、新しい木が植えられた。

17:00頃、景山公園からの眺望を終え、王府井に向かい東へ歩いていく。

後ろを振り返る。黄昏時の神武門。

紫禁城隅櫓。