福建省

南靖/福建土楼⑦ 土楼群人気No.1 雲水謡古鎮 魅惑の福建省

南靖

「雲水謡」

「雲水謡」とは南靖土楼群の中にあり、土楼と古鎮の両方がある地区で、目下、土楼群の中では人気No.1の観光地となっている。

人気のきっかけとなったのは2006年に公開された「雲水謡」という映画。

閩南地方のこの地が撮影のロケ地となった。

2年後には福建土楼が世界遺産に登録され、土楼を擁するこの地区も世界遺産の一角となり、人気に拍車がかかった。

主演は中国の人気俳優兼歌手の陳坤。

台湾の歌手で女優、マルチタレントでもあるビビアン・スー(徐若瑄)。日本の紅白出場歌手でもある。

映画の前半は、1946~47年頃の台湾という設定になっている。

裕福な歯科医師の家庭で育った王碧雲(ビビアン・スー)と、王碧雲の弟の家庭教師に招かれた貧乏医大生の陳秋水(陳坤)、二人は出会って恋愛関係に陥る。

しかし王碧雲の母親は、二人の生い立ち、境遇の違いを憂い、二人が惹かれ合う様子に懸念を示す。貧乏医学生の陳秋水は左翼団体に入っており、大陸から逃れて来た国民党員に追われる身となる(1947年台北で発生した「二・二八事件」が背景にある)。

陳秋水は一時身を隠すため大陸へと避難することに・・。その直前、娘を気遣う父親の取り計らいで、王碧雲は陳秋水のもとへ会いに行き、二人は再会と結婚を固く約束する。しかし国共内戦後に中台は分断され、40年近く往来は不可能となる。政治的局面により二人は永遠に引き裂かれてしまった。

「雲水謡」とは造語で、「雲」は王碧雲の“雲”、「水」は陳秋水の“水”である。もともとここは「長教」という地名であったが、映画の知名度にあやかり「雲水謡」に改名された。

雲水謡

雲南省の「香格里拉」、湖南省の「芙蓉鎮」等も映画がきっかけで改名され、観光地化が進んだ。改名により大成功した場所の一つともいえるよ。

現在、ここ「雲水謡」は人気の観光地となっているが、地理的、文化的に福建省との繋がりが深い台湾からの観光客が非常に多い。台湾での人気がかなり高いと思われる。

雲水謡

日本で販売されている「地球の歩き方」には、未だ紹介されていないよ。

雲水謡古鎮

田螺坑土楼群から車で約30分、雲水謡の入口付近へ到着した。お昼前で入口の1㎞ほど手前から渋滞となっていた。偶然にもこの付近で6路のバスが停車し、人が降り、Uターンして戻っていくのを目撃した。※写真は後で撮ったもの。

更に2㎞ほど進み、雲水謡古鎮の中央付近で降ろしてもらった。

広くてどこが正規の入口なのか分からなかったが、簡易テントで入場券を売っている場所があったので、そこで下車した。入場料は90元。

古鎮の中へ入って行く。

雲水謡にも正規のゲートや旅行センターがあるはずで、そこで荷物を預けたかったが、どこにあるか分からないので、とりあえず荷物を担いで観光する。

お土産や飲食店が多くあるエリアに出てきた。

ちょうど12時頃。

石跨橋

石跨橋。多くの人がこの上を歩いて渡っている。

もちろん自分も何往復かしてみた。

少し映画の話に戻るが、弟の家庭教師の舞台は、王碧雲の邸宅がある台北市内という設定になっている。実際の撮影現場は、アモイ市内のコロンス島に現存する洋館だ。

王碧雲の母親は二人を引き離すため、ある夜、陳秋水を夕食に招き、2か月分の給料を渡し口実を設け、陳秋水を解雇する。

大学が休みに入り、陳秋水は故郷の雲林県に帰省する。家庭教師の職を失い、王碧雲とも会えなくなった陳秋水。失意の中、生活の糧のため、脱穀上でアルバイトをする。

そんな中、王碧雲が汽車を乗り継ぎ、泥にまみれ陳秋水のもとへ会いに来た!

二人が再会したと思われる場所に「雲水謡」の大きな石碑がある。

ここで写真を撮ろうと、多くの人が入れ替わり立ち替わり群がり、人が映らない石碑だけの写真が撮れない!観光客の言葉を聞くと、台湾訛りの中国語が多い!

10分ほど粘って、どうにかして一瞬のスキを突き、石碑単独の写真を撮った!

ガジュマルの樹。

映画の中にも出てくる樹である。

映画の舞台では、ここは陳秋水の故郷、台湾中部の雲林県という設定になっている。ここが撮影場所に選ばれた理由は、閩南地方の影響を持つ雲林県の、1940年代の雰囲気がそのまま残っていたからだそうだ。

映画に出てくる脱穀場の水車。雲水謡のシンボル的存在となっている。もとは映画のセット用で作られたもので、動いていなかった。

船場渓

船場渓。暫くの間、この川の周辺を散策していた。

今回の雲水謡の観光ルート。地図の中央から入り、北から南へと回った。

徳風楼 <土楼No.34>

雲水謡の北の方にある「懐遠楼」へ向かう途中、別の土楼があった。

徳風楼。案内牌がないので詳細不明。

中庭はお土産屋のパラソルが邪魔で写真が撮れず、端の方だけ撮影。

懐遠楼 <土楼No.35>

懐遠楼。和貴楼と共に雲水謡を代表する土楼である。

清朝末期の1905~1909年に建設された円形土楼である。

中の様子。

天空の様子。綺麗な写真が撮れた。

廟の様子。

この土楼は4階建てである。

中興楼 <土楼No.36>

懐遠楼見学後、川沿いに南下して少し歩いた場所に「土楼之光文化圏」の看板を掲げる門があったので入ってみた。

この方形土楼は中興楼で、中が博物館になっているようだ。しかし入場料別途30元が必要で且つ行列が出来ているので入場を断念。上まで登れるようだが、荷物を背負いながら4階まで登るのもキツい。

鐘興楼 <土楼No.37>

先程の「土楼之光文化圏」の敷地隣にある鐘興楼。

門の横に「福建土楼之光博物館」の看板がある。ここも博物館のようだが、こちらは別料金不要。

鐘興楼は民国14年(1926年)に建てられた。

ここは昨日見学した土楼王子景区の慶成楼みたいに中がリニューアルされ、全部屋展示室となっているようだ。

自由に上にも登れるが、荷物が重いので登らなかった。

有料の写真スポット。多くの人が並んでいた。雲水謡は「恋人の聖地」ともなっているらしい。

田園地帯の中から「懐遠楼」を眺める。ここ雲水謡はもともと泥沼地で、映画のヒットによる改名後、急ピッチで観光地化が進められた。もともと古鎮があり、映画のロケ地にもなった場所であるが、今は半ばテーマパーク化している。

この頃、13時過ぎ。更に南下して行く。

翠美楼 <土楼No.38>

翠美楼。清朝道光帝時代の1831年に建設された円形土楼。

中の様子。

進士楼 <土楼No.39>

進士楼。

入口の上に「毛主席万歳」と書かれている。文革の嵐はこの平穏な土楼地帯まで浸透していたことを物語っている。

この進士楼、元は徳和楼といい、清朝末期の1908年に洪水で崩壊し、1931年に再建された。

土楼の周囲に文革時代のスローガンか描かれている。

土楼の背後にも描かれていた。

和貴楼 <土楼No.40>

和貴楼。方形土楼で、雲水謡を代表する土楼の一つだ。もう一つは先ほどの懐遠楼。

和貴楼は清朝雍正帝時代の1732年に建設された。

中庭の様子。

中へ進むと廟があった。

廟の手前に綺麗な色をした苔の広場があるが、何を意図しているのかは不明。

和貴楼は5階建てで、雲水謡の中で最も高い土楼である。

この和貴楼が今回の土楼見学の最後の土楼となった。昨日の土楼王景区の僑福楼から見学を始め、合計40の土楼を見て回った。

雲水謡停留所(6路バス終点)

14時過ぎに雲水謡入口のバス乗り場へ着いた。雲水謡観光中、所々に居た係員にバス停はどこか聞きまくったが、「多分あっちの方だろう」と、まともに場所を知る人はいなかった。ここへ来る大勢の観光客はマイカーかツアーで来ている。公共バスの情報が少ないのは仕方がない。しかし高鉄の駅から土楼まで公共の路線バスで来れるのは、ここ「雲水謡」だけである。

正直、ここが正規のバス停かどうかも分からなかったが、たまたま来た時にここで6路のバスを目撃し、人が下りていたのを目撃したので、ここへ来ればなんとかなると思って来てみた。

一応、このような看板があったが、こんなんじゃ普通分からないよ。

それほど待つことなく、10分程してバスが来た。本当は14時発のバスであったらしいが、渋滞で遅れたようで、運よくそれに乗れた。

南靖汽車駅まで運賃11元。座席も確保できた。

ここから南靖汽車駅までバスで1時間半かかる。

最後にこの「雲水謡」の映画、後半はチベットまでストーリーが展開していく。そして映画がきっかけで改名され、有名になった「福建土楼南靖雲水謡景区」であるが、映画の中に土楼は一切出てこない。

雲水謡の位置関係。

雲水謡がある南靖土楼群と厦門(アモイ)までの位置関係。