南京
地下鉄2号線「苜蓿园」
「南京大虐殺記念館」の見学を終え、「雲錦路」から地下鉄2号線で「苜蓿园」下車。この駅名は「苜蓿园」という名前であるが、駅の標識は「明孝陵・苜蓿园」と表記されている。
鐘山風景名勝区
地下鉄駅から地上へ出ると、すぐに切符売り場とカートの乗り場がある。
ここ一帯は「鐘山風景区」となっており、ここに明初代皇帝洪武帝の陵墓「孝陵」と、孫文の陵墓「中山陵」、蒋介石夫人の別荘であった「美麗宮」があり、風景区内はタクシー、一般車の入場は不可で、カートで回るようになっている。ちなみにこの風景区内に三国時代の呉の孫権陵墓もある。
カートは1回乗車で10元、乗り放題で30元。明孝陵だけの見学であれば、「苜蓿园」から徒歩で行ける。
明孝陵3号門
「苜蓿园」駅から徒歩10分ほどで「明孝陵」3号門へ到着。入場料70元で基本WeChatで購入するが、現金が余って使いたかったので、窓口で現金で入場券を購入した。
明の初代皇帝朱元璋は貧農出身で、10代で食いつなぐため托鉢僧をしていたが、元末に起こった紅巾の乱に参加して頭角を現し、モンゴル勢を長城外へ追いやり、漢民族国家を樹立した。中国史上、江南から勢力を伸ばして中国統一王朝を樹立した初めての王朝である。明の首都は南京であったが、第3代永楽帝の時代に紫禁城を建設し、北京へ遷都した。
「明孝陵」は2000年に世界遺産に登録された「明・清王朝の皇帝墓群」に追加される形で2003年に世界遺産に登録された。すぐ隣には孫文陵墓の「中山陵」がある。孫文は辛亥革命で異民族である清王朝を倒し、清の前の漢民族王朝である明を崇拝することで漢民族国家の樹立を正当化し、孫文死後、蒋介石は孫文後継者を正当化させるため、敢えて明孝陵の隣に、その規模を上回る「中山陵」を建設した。
明孝陵神道
「苜蓿园」駅から徒歩で行けるので明孝陵3号門から入場したが、3号門は陵墓手前の「神道」の途中の場所に位置していた。この「神道」は北京の明十三陵にもあり、全長1.5㎞ほどある。
「神道」の起点の方向を振り返る。起点へ戻って、神道入口から歩こうかと思ったが、時間がかかりそうなので諦めた。
陵墓がある方向へ向かっていく。
「神道」の両側には動物の石造が安置されている。
ここが「神道」の終点。
「神道」が終わっても、また暫く歩く。「苜蓿园」駅から「明孝陵」まで歩いて行けるのは確かであるが、陵墓の中はとてつもなく広く、陵墓内を見学するには結構な距離を歩くことになる。
3号門から20分程歩き、やっと陵墓の門が見えてきた。
陵墓の中の説明図。
文武方門
碑殿
「治隆唐宋」と刻まれている。
裏側の様子。
享殿
中へ入ると朱元璋の肖像画が飾られていた。
明朝初代皇帝洪武帝朱元璋。温和な聖人君主といった面立ちで描かれているが、実はもう一つ全く別の肖像画がある。
それがこちら。痣の多い醜い人相のもので、こちらの容貌に近い図の方が多く残っていることから、こちらの方が実物に近いとされている。元末に起きた紅巾の乱の首領郭子興から、その人相の悪さが気に入られ、紅巾軍の幕下に入れられとの逸話がある。そこで朱元璋はメキメキと頭角を現し、郭小興の養女の馬氏を妻にもらった。それが後の馬皇后である。
朱元璋と馬皇后。
内紅門
陵墓まで更にまだまだ歩く。
方城明城
額縁に「孝陵」の記載がある。
早速楼城の上へ登っていく。
楼上の上から眺めた景色。
宝頂
楼城の後方に「宝頂」という円墳がある。
ここに朱元璋と馬皇后が眠っている。
中へ入ってみる。
中へ入ると、いくつか写真の展示があった。
こちらは孫文一行の写真。1911年10月10日(宣統3年)に湖北省武昌(現武漢市)で辛亥革命が発生、翌1912年2月12日(宣統4年)に清朝の宣統帝溥儀が退位し、清王朝が滅亡。その3日後の2月15日(民国元年)に孫文はここ明孝陵へやって来て、朱元璋へ漢民族国家の復活を報告している。尚、辛亥革命が起こった武漢市で2019年末新型ウイルス(コロナ)が発生し、10月10日は台湾では双十節として建国記念日となっている。また年号ではないが、中華民国政府を継承する台湾では今なお民国の紀年法を使用している(2025年は民国114年)。
孫文は「駆除韃虜、回復中華」を掲げ、1906年に三民主義を提唱した。その中の民族主義として、当初は満州族の清王朝を打倒し、秦の始皇帝が中国を統一して以来の、万里の長城内側の中華の地に於いて、漢民族国家の再建を目指していた。しかし実際に清朝が滅亡すると、清朝に帰属していた新疆、チベットが惜しくなり、「漢民族と周辺民族の共和」と民族主義を変えて中華民国による新疆、チベットの領有を主張し、挙句の果てには漢民族による周辺民族の同化推進を提唱し始めた。
楼城を下りて行く。
陵墓周辺を30分程見学していた。
この後、中山陵を見学しに行くので、出口へ急ぐ。
出口へ向かう途中、明朝第2代皇帝建文帝の写真があった。建文帝は叔父の燕王朱棣の粛清を図って対立し、靖難の変で敗北。帝位を簒奪され、存在を抹消されたため、陵墓は無い。
明孝陵7号門
7号門より明孝陵を出て、この後、カートに乗り中山陵へ向かった。