福州
林則徐記念館(林文忠公祠)

福州の三坊七巷の中心街である南后街を南下し、三坊七巷を出てすぐの澳門路の通りへやって来た。

ここに「林則徐記念館」がある。

林則徐は福州市出身で、ここは邸宅だった場所でもある。

中国に林則徐記念館は2か所あり、ここ福州ともう1か所は新疆ウイグル自治区の伊寧市にある。ちなみに自分は新疆ウイグル自治区伊寧市の林則徐記念館へいったことがある。


林則徐は清朝時代の挙人、官僚で欽差大臣を2回歴任した。

世界史的にはイギリス商人のアヘンを没収し、アヘン戦争を引き起こす原因となったことで知られている。

連休中でもあり、多くの観光客が押し寄せている。

入場無料で、微信での事前予約も不要、やパスポートチェックも無かった。

早速中へ入ってみる。

林則徐は常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても国家のことを常に考え、今尚、中国では人気が高く、深く尊敬されている。

樹徳堂



林則徐の経歴表。

乾隆帝時代の1785年生まれで、27歳で科挙に合格している。

54歳の1838年に清朝の欽差大臣に任命され、翌1839年に広東省虎門にてアヘン2,376,254㎏を没収、大量処分し、これがアヘン戦争の引き金となる。

林則徐の廟。


庭園の様子。

林則徐史績展



当時の時代背景の様子が写真付きで展示されている。



当時の福州市の地図。明の時代までは泉州が海洋航路の中心であったが、土砂が累積し始めて船が寄港できなくなり、福州が福建省の中心都市へと変わっていった。



1799年から1839年までの40年間に中国へ輸入されたアヘンの数量推移。これにより大量の銀が国外へ流出し、国庫が圧迫され、財政難に陥る。

当時、イギリスからアヘンが持ち込まれ、徐々に中国に浸透していき、蔓延していく様子が説明されてる。

日本でいうと江戸時代末期の頃で、当時中国ではアヘンの輸入により中毒者が増加、健康面、風紀麺でも害が甚だしく、また財政的にも対英貿易が赤字に転落した。

アヘン戦争前夜の頃の様子。

当時の清朝皇帝は道光帝。道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し、アヘン密輸の取締役を命じた。欽差大臣とは皇帝の全権委任を得て対処する臨時の役職である。

林則徐は皇帝の命を受け、毅然とした態度でアヘンの問題に対処する。

1839年にアヘンの輸入を全面禁止とした。これを守らず密輸されたアヘンを没収する。

密輸したアヘンを没収されるイギリス商人たち。

没収されたアヘン。

没収されたアヘンが廃棄される様子。処分用の池がいくつも作られ、石灰と塩を混ぜ無害化し、廃棄された。この事件がきっかけで、1840年にアヘン戦争が勃発しす。結果、清朝は敗北して1842年南京条約を締結して5つの港の開港と香港島を割譲することになる。

林則徐はアヘン戦争の原因を作ったとされ、新疆ウイグル自治区の伊犁地区へ左遷される。当時の清朝領土の中では辺境の中の辺境地であったが、彼の心は折れていなかった。

新疆の辺境地で農地改革と治水事業で功績を挙げ、地元民からも慕われ、数年で中央政界へ復権する。そしてこの地で体験したロシアの脅威を政府要人に伝承する。

晩年の1849年、華南地方で発生した拝上帝会(のちの太平天国の乱)鎮圧のため、再度欽差大臣に任命される。任務に赴く途中、1850年広東省普寧で病死した。
