運城

李家大家

作坊院

李家15代当主の李子用の私邸「一経楼」エリアを見学後、四合院エリアへやって来た。

地図上では白い点線のエリアである。

はじめに作坊院を見学。たくさんの酢の壺が置かれている。

山西省は今でも「黒酢」の産地である。山西省の黒酢と江蘇省鎮江の黒酢は中国では非常に評判がいい。

製造工程の説明が書かれている。

同順堂

続いては作坊院のお隣の同順堂。

ここは三進四合院という、中国の伝統的な四合院に前院、中院、後院の3つのエリアを備えた住宅形式である。

同順堂の説明。1931年に建設された。ここは李家の中でも非常に特徴的な才女・王和君の私邸だった場所である。

中庭の様子。

同順堂。

中の様子。ここは王和君の書斎兼居室でもあった。

同順堂全体が王和君のプライベートエリアでもある。

王和君は李家16代の李大猷の妻であった。15歳で李家に嫁いで来た。正確がまっすぐで人当たりも良く、中医家系の出身で漢方医学にも詳しかった。学歴は小学程度しかなかったが、帳簿や算盤に長け、「敬義泰」という商号で陝西、甘粛、寧夏等に事業展開を行っていった。

李家仕女 賈氏

王和君が26歳の時(1924年頃)、夫の李大猷は早世してしまいました。王和君は夫の死後、家業を引き継ぎ、商売を発展させた女性として知られています。

李家15代当主の李子用から見て、王和君はいとこにあたる。旦那の李大猷は李子用の甥に相当する。王和君は李子用のことを「堂叔!」と呼んでいた。

李家仕女 賈氏

夫の李大猷の死後、王和君は「三寡婦」という愛称で呼ばれていました。当時、李家に寡婦が3人いたわけではなく、夫の李大猷は李道昇の三男であったためです。

李大猷の妻である王和君が暮らした邸宅。

部屋の中の様子。

李家仕女 賈氏

王和君にはいくつもの優れた才能がありました。彼女は小学校程度の教育しか受けていなかったとされますが、両手を使って同時にそろばんを操作できたと伝えられています。また各店舗の帳簿を見ただけで経営状態が判断できたそうです。

李家仕女 賈氏

彼女は馬車で故郷の閻景村を出発し、運城、解州、潼関、渭南、西安、宝鶏、平涼、蘭州、銀川などの店舗を巡回しました。自分の商号を利用しながら各地を巡り、店舗の経営状態を直接確認していました。また「自分の家の店にだけ宿泊し、他人の食事の世話にはならない」ことを徹底していました。

薬剤の保管箱。王和君は経営だけではなく漢方医療にも長け、薬は自分で調合していた。

李家仕女 賈氏

王和君は商才だけではなく、実家が中医の家系であったため、中医の知識も持っていました。伝統的な治療法を身につけていたとされ、リウマチや肩周囲の痛みなどを治療し、地域の人々にも施術していたと伝えられています。

また機織りなどもここで行っていた。

王和君の部屋の隣には愛息子・李同科の寝室がある。

李家仕女 賈氏

実は、李大猷と王和君の愛息子である李同科は1920年代末、土匪に人質に取られ、亡くなってしまいました。ここ同順堂は1931年に王和君の設計により建てられたものです。

子供部屋の中の様子。20代で夫、子供を失い、既にいない子供を偲び、この部屋を作ったと思うと、なんか心痛い。

李家仕女 賈氏

王和君は李家の慈善精神を継承し、干ばつで難民が発生した際は、積極的に地元民のため粥の炊き出しや食料の放出等の救済活動を行っていました。粥も箸が立つ濃いものにするなど、品質面でも徹底していました。

中国建築の円形の門「月亮門」。左側には「寿」(長寿)、右隣には「福」(幸福・福運)という漢字が飾られている。中国の伝統的な民家では、福と寿は非常に大切にされてきた吉祥文字である。そして門の上の扁額には「深藏若虚」と描かれている。

李家仕女 賈氏

「深藏若虚」とは老子に由来する言葉で、優れた才能や財産を持っていても、それを表に出さず、何も持っていないかのように振舞うこと、つまり「才能をひけらかさず、内に秘めなさい」という意味です。

また門の横には「知乎天」という3文字がある。「乎」は感嘆詞なので単語としては「知天」である。こちらも老子の「道徳経」の言葉で「人法地、地法天、天法道、道法自然」(人は地に従い、地は天に従い、天は道に従い、道は自然に従う)という言葉がある。

李家仕女 賈氏

人間も自然界の一部であり、自然の摂理に逆らわずに生きることが大切だという老子の思想を表しています。

明末清初の儒家・朱柏廬による『朱子家訓』の一節。

「祖宗雖遠、祭祀不可不誠。子孫雖愚、経書不可不読。」

李家仕女 賈氏

祖先は遠い昔の人であっても、祭祀は誠心誠意行わなければならない。子孫がたとえ愚かであっても、古典や学問の書物を学ぶのを怠ってはならない。

李家仕女 賈氏

1938年、万栄県に日軍が攻めてきた際、李一族は全国各所へ逃避、離散しました。王和君も陝西省へ逃避したと伝えられています。

李家仕女 賈氏

王和君の消息が次に登場するのが晩年の1967年、文化大革命の渦中でした。王和君が自分で一生懸命に記録していた帳簿が紅衛兵に見つかり、これが搾取の証拠とされ吊し上げに遭い、理不尽の中、亡くなりました。彼女は時代の潮流には逆らえないといい、逃げ隠れしなかったそうです。

同福堂

次は同福堂。

こちらもお隣の同順堂と同じく1931年建設で三進四合院。ゴシック式の西洋建築が融合していると書かれている。

中にはの様子。こちらも同順堂とほぼ構造が同じ。西洋風な箇所は確認できなかった。

同福堂。堂の中は閉められ、公開されていなかった。

私塾院

私塾院の門。

ここは教育施設で、李家の子供たちはここで教育を受けていた。

私塾院の中の様子。ヤオトン(窯洞)である。

ヤオトン(窯洞)の中にある教室。

李家仕女 賈氏

李家の子どもは満6歳になると、ここに通って勉強していました。

李家大院の私塾院は、李家が一族の子どもたちに教育を受けさせるために設けた、いわば李家専用の学校である。李家は「耕読伝家(農業と学問をもって家を伝える)」を重視していた。

信溥堂

信溥院。ここは李道栄の住宅である。

門の両側には朱子家訓にある有名な一節が書かれている。

一粥一飯、当思来処之不易:「一杯の粥、一碗の飯も、その来たる所以の容易ならざるを思うべし)」→倹約と勤労を重んじる家訓。

富思緯物:「富を思うときは、物事の道理(緯=すじみち・秩序)を考える」
→ 富を追い求める際も、筋道や道理を外してはならないという戒め。
力緯思富:「力を尽くすときは、その先の富(実り)を思う」
→ 努力するときは、その努力が正しく実を結ぶことを意識せよという教え。

信溥堂。

信溥堂の中の様子。書斎兼当主の仕事現場である。